<こんな方の悩みを解決する記事です>
- 哲学をわかりやすく学びたい
- 生きる意味について考えたい
- 知的好奇心を満足させたい
- 自然哲学者たち
- プロタゴラスの哲学【人間は万物の尺度である】
- ソクラテスの哲学
- プラトンの哲学
- アリストテレスの考え方
- 【隠れて生きよ】エピクロスの哲学【心の平安を求めて】
- 【禁欲主義】ゼノンの哲学【自然と一致して生きよ】
- セネカ
- ルネサンス【神からの開放】
- パスカルの哲学【人間は考える葦である】
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自然哲学者たち
あなたはこの世界の起源を考えたことがありますか?神がこの世界を創造したと考える人がいるでしょう。科学に詳しい人であればこの世界は素粒子から出来ているというでしょう。はるか2500年ほど前のこと、数々の哲学者が世界の起源を考察しました。彼らは世界(特に自然界)に注目したため自然哲学者と呼ばれています。
タレス:万物の起源は水である
科学の発展した現代、全ての物質は素粒子から出来ているということが分かっています。
よって万物の起源は「水」であるという主張は間違いであるといえます。
ですが「水」は地球の70%・人間の60%を占めており重要な物質であることは間違いありません。2500年ほど前に「水」に注目したタレスは鋭い視点をもっていたといえます。
何よりもこの時代に「世界が何か一つの起源から成り立っている」と考えたことそのものが凄いです。
ピタゴラス:万物の起源は数である
ピタゴラスという名前をどこかで聞いたことがありませんか?
「ピタゴラスの定理」の人です。三角形に関する定理ですね。
彼は世界の起源を「数」であると考えました。
一見すると不思議ですがこの考え方もあながち間違いではありません。
現代科学では全ての物質が素粒子から出来ていると考えますが、その素粒子は数学で記述されます。
「数」が世界の起源であると考えたピタゴラスも鋭い視点を持っていたと言えます。
ヘラクレイトス:万物の起源は火である
現代科学の視点から見ると、万物の起源は「火」であるという彼の主張は正しくありません。
彼の斬新な点は「火」という移り変わるもの(火はついたり消えたりしますよね)が万物の起源であると考えた点にあるのではないでしょうか。
現代科学では素粒子が万物の起源であると考えますが、その素粒子は目に見えないほど小さなものです。そしてその素粒子は常にゆらゆらと移り変わっているといわれています。
移り変わるものが万物の起源であると考えたヘラクレイトスもやはり凄い哲学者であったと思います。
エンペドクレス:万物の起源は火・空気・水・土である
余談ですがベイブレードというアニメをご存じですか?
その中で4つのエレメントとして火・風・水・土がでてきますね。
万物の起源は1つではなく4つであると考えた点は今までにない斬新な発想だと思います。
万物の起源である素粒子もじつはいくつかの種類があるといわれています。
そう考えるとエンペドクレスの視点も真実に近いところを突いているといえます。
デモクリトス:万物の起源は原子である
デモクリトスは万物の起源を原子という粒粒であると考えました。ついに正解がでました。
原子と素粒子で名前の呼び方は違うもののどちらも小さな粒粒という点では同じです。
遥か2500年ほど前に人間の頭だけで真実にたどり着いたって本当に凄いことだと思いませんか?
昔の人はテレビやスマホを持っていませんが、人の情報に頼らず自分の頭で物事を考えることが出来た凄い人たちであると思います。
プロタゴラスの哲学【人間は万物の尺度である】
今回は「人間」や人間の集まりである「社会」について考えていきます。人間はどのように生きるべきでしょうか?社会はどうあるべきでしょうか?今から2500年ほど前の哲学者であるプロタゴラスの思想を辿ってみましょう。
古代ギリシャ:正しいって何?
人間はどのように生きるべきか?
正しく生きるべきです。
それでは「正しい」とはなんでしょうか?
今から2500年ほど前、古代ギリシャでは民主政治が行われていました。今の日本と同じですね。
民主政治では多数決が行われ、多数の人が正しいと言ったことが正しいことになりました。
古代ギリシャでは多数の人から賛成してもらうため、上手に話せることを目指していました。
本当に正しいかどうかではなく、多くの人に正しいと思わせることに力を入れていたのです。
そんな中「ソフィスト」というお話が上手な先生が現れます。
プロタゴラス:人間は万物の尺度である
そんな時代にプロタゴラスというソフィストが現れます。
彼は「人間は万物の尺度である」という名言を残しています。
絶対的な「正しさ」は存在せず、自分が正しいと思った、もしくは多くの人が正しいと考えたことが「正しい」という主張です。
あなたはどう考えるでしょうか?
私はプロタゴラスの主張に賛成です。
例えば世界にあなた一人しかいないと考えてみましょう。
あなたが正しいと考えたことは正しいですか?間違っていますか?
もしも絶対的な正しさが存在するとしても、あなたがそれに気づかなければ意味がありません。
あなたが正しいと考えたことは正しいといえるのではないでしょうか?
人は正しさを求める
プロタゴラスの主張は人々を混乱させることになりました。
人によって正しさが違うといわれると、一人ひとりが自分の正しさを信じてバラバラになってしまいますよね。
そんな中ソクラテスという有名な哲学者が現れます。
彼は人間や社会には絶対的な正しさがあると主張しました。
人は絶対的な正しさに沿って生きるべきだと説いたのです。
それでは絶対的な正しさとはなんでしょうか?
彼の思想を辿ってみましょう。
ソクラテスの哲学
ソクラテスは絶対的な正しさが存在すると考え、それを追求して生きるべきであると説きました。彼の思想を辿ってみましょう。
ソクラテスの問答法
ソクラテスは対話という手法を用いることで、それまで正しいと信じられていたことを疑いました。
自分の中で正しいと考えていることでも、他人から質問されると間違いに気づくものです。
無知の知
ソクラテスはこの世界に絶対的な正しさが存在していると考えました。
しかし彼はその絶対的な正しさが何なのかを知らないと考えました。
絶対的な正しさを知らないということを知っている。
ここから哲学者は絶対的な正しさを求めて考察を深めていくことになるのですね。
人は正しさを追求して生きるべきである
絶対的な正しさを知らないと言ったソクラテスですが、それは諦めではありません。
絶対的な正しさを知らないが、それを追い求めながら生きるべきであると説いたのです。
とても謙虚な姿勢だと思います。
彼は問答法を行ったことで人々から非難され、処刑されました。
人は自分が正しいと思っていた事の間違いを指摘されるとき、いい気分はしないものです。
彼は処刑されることから逃げませんでした。
彼は法に従い、最後まで正しく生きることを追求した人だったのです。
プラトンの哲学
プラトンはイデア論の中で、人はどのように生きるべきかを説きました。また個人の生き方だけでなく、国家とはどうあるべきかも説明しています。プラトンの壮大な思想を辿ってみましょう。
プラトンのイデア論
プラトンはソクラテスの弟子にあたる人物です。
ソクラテスは絶対的な正しさが存在すると主張し、それを追求して生きるべきであると説きました。
プラトンもソクラテス同様、絶対的な正しさが存在すると考えました。
その絶対的な正しさが存在する世界を「イデア界」と名付けました。
そして私たちが生きている世界はイデア界に対して不完全な世界(感覚界)であるとしました。
分かりやすく説明するために例を挙げてみます。
例えば「直線」と言われた時、頭の中で「直線」をイメージできますよね。ですが「直線」を書いてくださいと言われた時、あなたは書くことができますか?定規を使えばまっすぐに近い直線が書けるかもしれませんが、厳密にみると必ずズレがあるはずです。
頭の中でイメージする理想的な直線がある世界を理想的な世界(イデア界)といいます。
そして少しずれた直線がある世界を不完全な世界(感覚界)といいます。
なんとなくイメージできましたか?
プラトンはこの世界を理想的な世界と不完全な世界の二つに分けて説明したんですね。
正しく生きること
プラトンはイデア論の中で、理想的な世界(イデア界~絶対的な正しさ)が存在すると主張しました。人はその絶対的な正しさを追い求めて生きるべきであるとしました。ソクラテスと同じ考え方ですね。プラトンは理想的な世界に近づくためには知恵が必要だと説きました。
つまり勉強しなさいということですね。
ですが私たちの生きる世界は不完全なのでなかなかうまくいきません。勉強しなくてはいけないと分かっていてもついついサボりたくなるのが人間ですよね。
ですがプラトンは不完全な世界の考え方(サボりたい!)を制御し知恵のある状態を目指しなさいと言っています。また知恵のある状態に向かうことが出来る人のことを、勇気がある人だと考えたのです。プラトンのこの考え方はなんとなくイメージできますよね。遊びたいサボりたいと考えがちな私たちですが、しっかりと勉強して知恵を身に着けることで理想的な生き方に近づけますよということです。
また、理想的な生き方に近づくことが人間の幸福であると考えました。
国家論-国家はどうあるべきか-
プラトンは人の生き方だけにとどまらず、国家がどうあるべきかについても説明しました。
国家も人と同じで、理想的な世界を目指して進むべきであるとしました。
国民は不完全な存在なので、国のトップが完全な存在として人々の見本となり、国家を導いていくことが必要と説きました。
アリストテレスの考え方
プラトンが理想的な世界を考えたのに対して、アリストテレスは現実的な思考の持ち主でした。アリストテレスは現実の世界を生きる私たちに役立つ知識をたくさん残してくれました。
万学の祖アリストテレス
アリストテレスは哲学だけでなく、生物学、倫理学、政治学など、現実を生きる私たちに役立つ様々な学問の基礎を築いた人です。そのため万学の祖と呼ばれています。
アリストテレスは科学的な思想を持ち合わせていたため、目で見えるものや手で触れられるものを重要視しました。
プラトンは理想的な世界(イデア界)に真の正しさが存在すると説きましたが、現実の世界に生きる私たちはイデア界を見たり聞いたりすることが出来ません。
アリストテレスは私たちが生きる現実世界の中に真の正しさが存在すると考えました。高い所にあるものが下に落ちるように、種を植えると花が咲くように、太陽が昇って沈むように、自然界の秩序の中に真実が存在すると考えたのです。
この考え方は現代の私たちが聞いても納得できるものですよね。私たちは実際に目で見たり手で触れられるものを信じたい生き物です。
中庸-バランスをとって生きなさい-
アリストテレスは現実の世界を生きる私たちに役立つ知識を沢山残してくれました。
中庸という考え方もその一つです。因みに私はこの考え方が大好きです。
中庸とは簡単に言うと、バランスを取って生きなさいということです。
分かりやすくするために例を挙げると、理想だけでなく現実も見なさい、ポジティブだけでなくネガティブも大切にしなさい、などなどです。
私の経験上、常に理想ばかりを追い求めて生きていると上手くいかないことが多いと思います。人はいつもポジティブであるべきだ、と考えてそのように行動していると疲れてしまうし、また気づかないところで他人を傷つけてしまっていることがあります。
ソクラテスやプラトンが教えるように理想的な生き方を追い求めることはもちろん重要なことだと思いますが、同時に私たちが実際に生きている現実世界を見つめながら、常にバランスを探して生きることが、現実の世界で生きる私たちの最善な生き方ではないでしょうか?
観想-真理に思いを巡らすことが最高の幸福である-
アリストテレスは人の生き方を大きく3つに分けました。
一つ目が快楽を追求する生き方、二つ目が地位や名誉を追求する生き方、三つ目が真理を追究する生き方です。
先ほど「中庸」という考え方を紹介しましたが、快楽を求めすぎても人は幸せになれず、地位や名誉を求めすぎても人は幸せにはなれないと考えました。
三つ目の生き方である真理を追究する生き方こそが最も幸せな生き方であると考えたのです。
プラトンはイデア界に、アリストテレスは現実世界に真理があると考えました。お互いの考え方は異なりますが、真理を追究している点は同じです。人はどのように生きるべきか?世界はどのように成り立っているか?などについて考えることは、そのこと自体が幸せであると言えるのですね。
【隠れて生きよ】エピクロスの哲学【心の平安を求めて】
動乱の時代を生きたエピクロスは、心の平安を求めて独自の思想を展開しました。変化の激しい現代を生きる私たちにも役立つ知識が盛りだくさんです。
エピクロスの生きた時代-不安-
今から約2000年ほど前の古代ギリシャは変化の時代を迎えていました。外国の国々と交流が盛んになったのです。
古代ギリシャの国の中で住み慣れた生活をしていた人々は、外国との交流が始まると不安になります。あなたも経験があるのではないでしょうか?例えば小学校から中学校に上がる時、もしくは田舎から都会に引っ越した時など、居心地の良かった環境から見知らぬ環境に変わった時って誰でも不安になりますよね。
そんな時に現れたのがエピクロスでした。
エピクロスの名言で「隠れて生きよ」というものがあります。
エピクロスは「エピクロスの園」という自分たちだけの村を作って暮らしました。エピクロスの思想に共感する人々だけで生活し、社会との交流を遮断したのです。
現代を生きる私たちも変化の激しい時代を生きています。私自身も心の平安を求めて家の中に引きこもりたいと感じることもあります。エピクロスの思想は現代を生きる私たちにも参考になる思想です。
快楽主義-心の平安こそが最高の幸福である-
エピクロスは心の平安こそが最高の幸福であると考えました。これを快楽主義といいます。
ここでいう快楽とは食欲・性欲・睡眠欲などの一時的な快楽ではなく、心の平安という長期的な快楽を指しています。
実際エピクロスは非常に質素な生活をしたといわれています。
あなたはエピクロスの思想についてどう思いますか?
私自身はエピクロスと考え方が似ているなと感じています。私は欲しいものもあまりなく、贅沢な食事をしたいとも思いません。それよりも不安や恐怖を感じることなく毎日を過ごせるほうが幸せだと感じます。
もちろんエピクロスの思想が絶対的に正しいというつもりはありません。不安を感じない、安定している、ということは裏を返すととても退屈です。
不安の中で生きることで刺激を感じたいという人もいるでしょう。不安の中で生きることで人は成長することが出来ることも事実だと思います。高く飛ぶためには一度大きくしゃがむ必要がある。つまり成長していくためには不安な状態を作り出す必要があるからです。
ただ、この時代の古代ギリシャは社会の変化が激しすぎたので、不安や刺激よりも安定を求める人が多かったのかもしれないですね。
足るを知れ
エピクロスは「足るを知れ」という名言も残しています。
エピクロスは質素な生活をしていましたが、それでも自分は満ち足りていると感じなさいということです。
私はこの考え方が大好きです。自分に何かが足りないと考えることはよくあることです。お金が足りない、時間が足りない、能力が足りない、など考え出すと切りがありません。ではどれだけあれば足りていると感じることが出来ますか?お金は100万円必要ですか?1000万円必要ですか?時間は1時間必要ですか?1日必要ですか?
人はあればあるだけ欲しがります。どこまで手に入れても満足することが出来ない可能性があります。自分の現状に満足して感謝すること。そのことが心の平安を作り、幸せに生きることが出来るのではないでしょうか?
しかしながら足りないと感じる気持ちは、時に行動の原動力になることがあります。お金が足りないと感じているから一生懸命お金を稼ごうとします。時間が足りていないと感じるから隙間時間を有効に使おうとします。能力が足りていないと感じるから一生懸命勉強しようとします。
心の平安を取るか、心の原動力を取るか、その時々の状況に応じて考え方を変える柔軟性も必要かもしれませんね。
死の恐怖を克服する
死の恐怖は心の平安を妨げる、とエピクロスは考えました。
「私たちが生きている時、死というものは存在していない。私たちが死んだ後、私たちは生きていない」と主張しています。
つまり、死んだ後は自分というものは既に存在しないので、考えても無駄ということですね。
私はこの考え方も大好きです。
自分が死ぬときのことを考えると不安になります。死んだ後どうなるのかな?と考えてしまいます。
ただ死んだ後のことはだれにもわかりません。
死んだ後に生まれ変わるとか、死んだ後に天国に行けるとか、そのように考えることで心の平安を得られる場合もあります。
ただ実際のところは誰にもわかりません。
分からないのなら、今生きている時間を大切に生きるべきではないでしょうか。エピクロスの残した思想は時代を超えて私たちに役立つ知識を提供してくれていると思います。
【禁欲主義】ゼノンの哲学【自然と一致して生きよ】
動乱の時代を生きたゼノンは、心の平安を求めて独自の思想を展開しました。人は自然の一部であり、自然の秩序に従って生きるよう説いたのです。
ストア派ゼノン-人は自然の一部である-
今から約2000年ほど前の古代ギリシャは変化の時代を迎えていました。外国の国々と交流が盛んになったのです。古代ギリシャの国の中で住み慣れた生活をしていた人々は、外国との交流が始まると不安になります。
ゼノンも前回のエピクロスと同様に動乱の時代を生きた人でした。
ゼノンは「人は自然の一部である」と主張し、心の平安を作り出そうとしました。
この考え方もよく分かります。
私たちは何か辛いことや悲しいことがあった時、空を見上げたり海を眺めたりしませんか?自然は人間の感情とは関係なく、自然の法則に従って規則的に動いています。朝になると太陽が昇り、夜になると沈みます。川はいつも同じ方向に流れています。
動乱の時代を生きたゼノンもそんな自然の中に心の平安を求めたのではないでしょうか?
人や社会のような移ろいやすいものではなく、自然のような秩序のあるものに思いをはせて。
禁欲主義-自然の秩序に従って生きよ-
ゼノンは禁欲主義という独自の思想を説いたといわれています。
禁欲主義は食欲・性欲・睡眠欲などを我慢せよという意味ではありません。
人間は感情の生き物なので、欲を抑えれば抑えるほどそれを満たしたくなるものです。
ただ、過度に欲を満たすことはやめなさいと言っています。
あなたはこの考え方についてどう思いますか?
私は半分賛成で半分反対です。
過度な欲望は良くないと思いますが、それでも人間は我慢できない生き物です。
我慢できなかったとしても、そんな自分にうしろめたさを感じる必要はないと私は思います。
欲望を感じたのであれば、上手に解消すればいいのです。例えば欲望を芸術やスポーツで解消する方法もあります。人に迷惑をかけない程度に自分なりの欲望解消法を見つけてはどうでしょうか?
人は欲望を最大限まで満たしたとき、その虚しさに気づくはずです。
そんな時ゼノンの思想を思い出してみてください。
ゼノンは自然の秩序に従って理性的に生きることが人間の真の幸せであると考えました。人間は自然の一部であると考え、自然とともに生きる。その感覚を心の底から感じることが出来れば、真の幸福に辿り着けるのかもしれません。
セネカ
セネカはゼノンと同じくストア派の哲学者でした。人生の短さについて独自の思想を展開しています。忙しい毎日を生きる私たちに突き刺さる言葉が盛りだくさんです。
ストア派セネカ
セネカは今から約2000年ほど前のローマでストア派として活躍した哲学者でした。
元々は古代ギリシャのゼノンから始まったストア派の思想はローマでも流行りました。
変化の激しい時代を生きた彼らは心の平安を求めてました。
ストア派の人々は自然の中に心の平安を求め、人は自然の秩序に従って生きることで心の平安を得ることが出来ると考えました。
セネカもストア派の考え方に共感した哲学者の一人です。
贅沢をせず、良いことや悪いことのどちらも求めず、ただただ自分の心の中が平和で安定していることを望みました。
私はこの考え方に非常に共感できます。良いことがなくても構わないから悪いことも起きないでほしいと考えることが多いです。心の中で様々なことを考え思いを巡らすこと。それだけで私は幸せに生きられるタイプです。
セネカも私と似たような人であったのではないかと想像しています。
人生の短さについて
古代ローマでは人々がとても忙しく働いていました。現代の日本と同じですね。
セネカはそんな状況を見てこう言いました、「人は人生を浪費している」と。
セネカの言う時間の浪費とは、自分自身と向き合うことを避け、あえて多忙な生活を送ることです。
あなたはこの考え方をどう思いますか?
一見すると多忙な時間のほうが充実していて、暇な時間は無駄に見えますよね。
セネカは更にこのように言っています。
多忙な人は目的もなくただただ忙しくしているだけだ。多忙な生活から解放された時にはすでに年老いてしまい、後悔の念が押し寄せてくる。過去を振り返っても大して良い思い出もない。。。
どうでしょうか?
セネカの考え方はなかなか的を突いているなと思いました。
私はサラリーマンとして働いています。会社から与えられた仕事をこなす毎日で、一日があっという間に過ぎてしまいます。自分が会社に行きたくないと思ったとしても、毎日朝早く起きて出かけなければならない。
これを主体的に生きているといえるでしょうか?
セネカの思想は多忙な毎日を送る現代人にとっての重要な教訓になるのではないでしょうか。
本当に重要なことに時間を使いなさい
多忙な時間を過ごせば人生はあっという間に過ぎてしまうが、時間を上手に使えば人生を充実させることが出来る。セネカはそのように考えました。
時間を上手に使うとは、自分自身のために時間を使うということです。
あなたは暇な時間を恐れて何とか予定を埋めようと考えたことがありませんか?
一見すると多忙な生活のほうが充実していて、暇な時間のほうが無駄に見えますが、そうではありません。
暇な時間にこそ、あなたは自分自身の内面と向き合うことが出来ます。心の中で浮かんでは消える思いに向き合う時間。そんな時間はあなたの心を育てるための非常に重要な時間なのです。
人はどのように生きるべきか?世界はどのように成り立っているのか?このような問いに向き合う時間こそが貴重であると考えました。
名誉や財産を求めて多忙な時間を過ごした人は、仮に長生きしたとしても長く生きたとはいわない。ただそこにあっただけである。
セネカの思想は現代を生きる私たちにとって厳しい考え方ですが、その分心に響くものがあります。
あなたもたった一度の人生。時間の使い方についてじっくりと考えてみてはいかがでしょうか?
ルネサンス【神からの開放】
約1500年以上もの間、キリスト教が人々の考え方に大きな影響を与えていました。やがてキリスト教の権威が衰えると、ルネサンス運動が起こりました。キリスト教の価値観から解放され、哲学の歴史は再スタートを切ったのです
哲学の停滞-社会がキリスト教一色に
古代ギリシャを中心に発展した哲学は、今から約2000年ほど前に停滞期に突入しました。
それから約1500年間もの長期に渡り、人々は宗教、特にキリスト教を信じるようになりました。
社会もキリスト教一色に染まっており、建築物や絵画なども宗教的なものが作られるようになりました。人々はただ神様を敬い、自分は下等な存在であると考えたのです。
こんな時代では哲学は進歩しません。「人はどのように生きるべきか?」、「世界はどのように成り立っているか?」などの問いに対して答えを模索するのが哲学でした。ですが宗教が人々の思考を支配すると、「人は神様を敬って謙虚に生きなければならない」、「この世界は神様が創造された」、という具合に全ては神様の思し召しということになってしまいます。これでは人間が主体的に考えることができませんよね。全ては神様が創造されたと言われてしまうと、哲学はそこで終わってしまいます。
哲学の再出発-ルネサンス
そんなキリスト教も徐々に力を失っていき、今から約500年ほど前にルネサンス運動が起きました。
ソクラテス・プラトン・アリストテレスなど古代ギリシャの哲学者は自分の頭で物事を考えていました。そんな古代ギリシャの哲学を研究し、もう一度人間が主体的に物事を考え始めることになりました。宗教一色だった建築物や絵画も徐々に変わり始め、個人の独創的なアイデアが反映されるようになってきました。
宗教が流行っていた時代は、ある意味人々に元気がなかったと言えます。神様という絶対的な存在がいて、人間は下等な存在であると考えていては自信を失いますよね。
どうせ人間には無理だ。と考えてしまうのはしょうがないと思います。ルネサンス以降、人々は元気を取り戻しました。人間は何でもできる。と考えて自信を取り戻したのではないでしょうか?
何か夢や目標を成し遂げるに当たって、自信というのは非常に重要です。自分にはできると心の底から思うことができたなら、大抵のことは上手くいくものです。大人はできるだけ子供を褒めてあげてください。子供が自信を持つことができたなら、将来色んなことを成し遂げられる大人に育つと思います。
人間が力を取り戻す
ルネサンス以降、宗教という縛りから解き放たれた人間が元気を取り戻しました。
例えばレオナルド・ダヴィンチという人が出てきました。彼は画家として有名ですが、解剖学、数学、天文学など、ありとあらゆる学問を一人でこなした天才でした。彼は宗教に縛られず、自然や人間をありのままに捉えた絵を描きました。
またコペルニクスやガリレオ・ガリレイという天文学者も現れました。
キリスト教の時代は神様や地球を中心にあらゆる天体が回っていると考えられていました。これを天動説と言います。彼らは自然をあるがままに観察し、実は地球が太陽の周りを回っているということを発見します。これを地動説と言います。ガリレオ・ガリレイは地動説を発表するのですが、キリスト教の教えに反するという理由で迫害を受けることになりました。しかし彼は自然をあるがままに観察することをやめず、ものが高いところから低いところへ落ちるという重力の法則なども発見していきます。
このようにルネサンス以降、キリスト教から解放された人々は人間や自然をあるがままに捉え、目で見たもの耳で聞いたものを頼りに物事を解明していきます。この頃から科学が発展を始めていくのですね。
現代を生きる私たちは科学技術の発展により豊かな生活を送ることができていますが、人間が元気を取り戻したこの時代から科学が発展したと言えます。
キリスト教に関する補足
この時代のキリスト教はネガティブな捉え方をされることがありますが、現在も世界中に信者がいることからも分かる通り、非常に素晴らしい教えです。
私もキリスト教の教えが大好きなので、別の機会に改めて紹介したいと思います。
神様が上で人間が下という考え方は、もともと人間が謙虚に生きるための教えなのですが、解釈の仕方が悪いと、人間を抑圧することにつながるのかもしれません。
パスカルの哲学【人間は考える葦である】
パスカルは哲学だけでなく数学や物理学など、様々な分野で功績を残しました。彼の名言「人間は考える葦である」はどんな意味を持っているのでしょうか?
人間は不安定な存在である
パスカルは今から400年ほど前の哲学者です。
彼は哲学だけでなく数学や物理学など、なんでもできる学者でした。例えば物理学でパスカルの原理というものがありますよね。
彼は人間を不安定な存在だと捉えました。
人間は他の生物と違って考えることが出来ます。人間は考えることで科学技術を発達させ、生活を豊かにしていきました。その点で人間は偉大です。
ですが人間は弱い生物でもあります。人間はライオンやトラには勝てませんよね。
また人間は安定を求める生き物ですが、いざ安定を手に入れたら退屈を感じ刺激を求めます。
このように人間は偉大さと弱さ、安定と刺激など、両極端の間を彷徨う不安定な存在なのです。
人間は神様のように絶対的な存在にはなれませんが、その夢を捨てきれずにいます。
あなたもパスカルの考えには納得できるのではないでしょうか?
人は中途半端な存在です。お金がたくさん欲しいと思いながら、いざ大金が手に入りそうになったら怖くなったりします。夢を叶えようとして、いざ夢が叶いそうになったら怖くなってやめてしまいます。
魂の平安を求めて-キリスト教
パスカルは不安定な人間の心を静めるために、キリスト教への信仰を求めました。
この時代のキリスト教は最盛期に比べると権威が落ちていましたが、パスカルは様々な学問を学んだ上で、最終的にキリスト教を求めるようになりました。
キリスト教は本当にありがたい教えです。私もキリスト教の教えが大好きなので、別の記事で詳しく紹介したいと思います。私も人生に疲れた時、キリスト教の教えを学ぶことで救われた経験があります。
人間は考える葦である
パスカルの名言です。あなたも一度は聞いたことがあるのではないでしょうか?
葦とは植物の一種です。人間は葦のように脆くて不安定な存在であるということを表しています。
ですが人間はただの葦ではなく、「考える葦」なのです。
人間は考えることができる点で宇宙全体よりも偉大であるという意味です。宇宙全体は考えたりしないですもんね。人間だけが考えることができる特別な存在なのです。
右脳と左脳
パスカル曰く、人間は2つの方法で考えることができるといました。
現代を生きる私たちには右脳と左脳をイメージすると分かりやすいでしょうか。
一つ目は幾何学的に考える力です。左脳で考える力とも言えます。左脳は数学など物事を理論的に理解することができます。Aが成り立つからBが成り立つ。Bが成り立つからCが成り立つ、というように、一つ一つ順を追って考えていきます。
二つ目は繊細に考える力です。右脳で考える力とも言えます。こちらは絵を描くなど、イメージを働かせる力です。一つ一つ順を追って考えるというよりは、一瞬で全体がパッとイメージできる力です。
私たちは脳科学が発達した時代を生きているので、この考え方は理解しやすいですね。
【知は力なり】ベーコンの哲学【帰納法とは?】
私たちは科学技術の発展により快適で豊かな生活を送っています。フランシス・ベーコンの思想は科学技術の発展に大きく貢献したといえます。
知は力なり-自然を支配し私たちの生活を豊かにする
フランシス・ベーコンは今から約500年ほど前のイギリスの哲学者です。
この時代は人間が自然をあるがままに捉える風潮が高まっていました。
彼は「知は力なり」という有名な言葉を残しています。
自然を理解することで自然を支配し、私たちの生活が豊かになるように利用すべきであるという考え方です。
現代を生きる私たちにとって、この考え方は違和感のないものだと思います。
私たちは科学技術の発展により非常に便利で快適な生活を営んでいますよね。
フランシス・ベーコンの思想は科学技術が発展するための礎を築いたものだと考えられます。
自然を支配するためには、まず自然をあるがままに理解する必要があります。ただこの「自然をあるがままに理解する」ということは非常に難しいことです。
フランシス・ベーコンは自然をあるがままに理解するためには、偏見を捨てる必要があると考えました。
私たちはどうしても偏見を持って物事を見てしまいます。テレビやニュースで言っていたから、親や教師が言っていたから、友達がみんな言っていたから、という理由で始めから偏見を持って物事を見ていませんか?
特にフランシス・ベーコンが生きた時代はキリスト教が広く人々の考え方に影響を与えていた時代です。現代の私たちは、ものが高いところから低いところに落ちるのは重力が働いているからだと知っていますが、神様がそのような力を与えているからだと教えられていたならば、そのような偏見を持って自然を見てしまいますよね。
経験論-経験こそが重要である
フランシス・ベーコンは自然をあるがままに理解するためには経験を重視すべきだと考えました。
これを経験論と言います。
頭で物事を考えると、どうしても偏見が現れてしまいます。例えばあなたが旅行に行く計画を立てているとします。インターネットやガイドブックで調べると、その土地は食べ物が美味しくないと書かれていました。その口コミを見てあなたは旅行に行くことをやめたとします。それではあなたの中で成長はありませんよね。実際に行ってみたら、食べ物はおいしかったのかもしれません。何事もやってみなければわからないのです。
実際に自分の目や耳で感じたことを大切にする。フランシス・ベーコンは経験を重要視することで自然をあるがままに理解しようと努めた哲学者でした。
帰納法-あるがままの自然を観察する方法-
フランシス・ベーコンは自然をあるがままに経験するために帰納法という手法を考えました。
この手法は現代科学でも利用されている手法です。
例えばAさんが90歳で死に、Bさんが87歳で死んだとします。これをCさんDさんEさん…とひたすら確認し、最も長生きした人が100歳まで生きたとします。ここで帰納法を用いると、「人間は最大100歳までしか生きられない」という結論になります。
このように具体的な物事を実際に見ていく、経験していくことで一般的な結論を見出そうとしたのです。
どうでしょうか?あなたはこの考え方に納得できますか?
気づいた方も多いと思いますが、帰納法には大きな欠点があります。それは、もしも101歳まで生きた人が現れたならば、「人間は100歳までしか生きられない」という結論は崩壊してしまうということです。
このように欠点はあるものの、自然を経験から理解するという手法は現代科学でも利用されています。科学者は実験を行うことで個別の物事を観察し、そこから一般的な結論を見出そうとしています。
現代を生きる私たちは科学を絶対的なものと捉えがちですが、ある例外が現れたらあっという間に崩壊してしまう脆いものなのです。
帰納法を学んだあなたには、科学は絶対的ではなく欠点もあるということを理解してもらえると嬉しいです。
【我思う故に我あり】デカルトの哲学【演繹法とは?】
フランシス・ベーコンの帰納法に対して、ルネ・デカルトは演繹法を提案しました。近代哲学の父と言われるデカルトの名言「我思う故に我あり」とはどういう意味でしょうか?
経験は信用できない
フランシス・ベーコンは経験を重視し、目で見たり耳で聞いたりすることで自然を理解しようとしました。これは私たちにも理解しやすいと思います。
一方でルネ・デカルトはこう言いました。「経験は信用できない」と。
よくよく考えてみると、確かに私たちの経験は当てにならないです。
例えばある夫婦がいたとします。奥さんが髪を切って帰ってきた時、夫はそのことに気づかないということがあります。夫は毎日奥さんを見ているはずですが、実際はよく見ていないのです。これは匂いにも当てはまります。犬は人間よりも嗅覚が鋭いですよね。人間はこの世界の匂いについて、ほんの一部分しか嗅ぐことができていないのです。同じことが聴覚にも当てはまります。
この例を見ても分かる通り、人間の経験や感覚はとても限られており、また間違いやすいものです。
ルネ・デカルトはそのような信用できない経験から導き出された真理もまた信用できないと考えました。
確かにその通りだと思いますが、それではどうすれば真理を見出すことができるのでしょうか?
方法的懐疑-我思うゆえに我あり-
彼は方法的懐疑という手法を用いることで真理を見出そうとしました。
方法的懐疑とは、あらゆる経験を徹底的に疑っていき、最終的にどうしても疑いきれないものを真理と認めようというものです。とても興味深い方法ですよね。
彼は目で見えるもの耳で聞こえるもの全てを疑っていきます。今目の前で見えているものは全て幻かもしれない。耳で聞こえているものは幻聴かもしれない。そもそも今この瞬間私は夢を見ているだけなのかもしれない。
そのようにあらゆるものを疑っていった先に、一つだけどうしても疑うことができないものと出会います。
それはあらゆるものを疑っている私自身は間違いなく存在しているということです。
ここでいう私とは私の体のことではありません。ここでいう私とは私の心のことを言います。
あらゆるものを疑っているのは私の体ではなく私の心ですからね。
そしてこの名言が出てきます。「我思うゆえに我あり」。
今あらゆるものを疑っている私の心は間違いなく存在しているということです。
ルネ・デカルトは人間の経験や感覚という不確かなものに頼らず、人間の思考を用いて考えを巡らすことで一つの絶対的な真理に到達することができたのです。
演繹法-真理を明らかにする方法
ルネ・デカルトは真理を明らかにする方法として、演繹法を提案します。
これは帰納法と同様に現代科学でも用いられている手法です。
演繹法はある絶対的な真理を用いて次の真理を導き出すという手法です。
例えば三角形の内角の和が180度であるという絶対的な真理があるとします。この真理を用いると四角形の内角の和が360度であるということを証明することができます。三角形の内角の和が180度であるということが真理であるならば、そこから導き出された四角形の内角の和が360度であるということも真理である。という考え方です。
あなたはこの考え方をどう思いますか?
実は演繹法にも欠点があります。
それは、三角形の内角の和が180度であることが真理であるということを証明する方法がないということです。演繹法を用いるためにはその出発点となるような絶対的真理が必要なのですが、それを見つけることがほぼ不可能であるということです。
ルネ・デカルトは「我思うゆえに我あり」ということで、考えている私の心は確かに存在しているという真理にたどり着きました。よって私の心が存在するという真理から、様々な真理を証明していく必要があるのですが、これはほぼ不可能とも言える大仕事になります。
演繹法は人間や世界を理解するのに役立つ方法ですが、これだけでは上手くいきません。
フランシス・ベーコンが提案した帰納法とルネ・デカルトが提案した演繹法のメリット・デメリットを理解し、上手に使い分けていく必要があるのですね。
現代科学は帰納法と演繹法を用いることで発展してきましたが、そのどちらにも欠点があります。
我々は科学を絶対視しがちで、科学的に証明されたのであれば正しいはずだと考える傾向があります。ですが実際は科学にも欠点があるのです。科学が絶対的に正しいと考えることはやめておきましょう。
体と心は別々のものである-心身二元論-
ルネ・デカルトはまた、体と心は別々のものであるという心身二元論を唱えました。
ルネ・デカルトは、方法的懐疑という手法を用いることで「考えている私の心」の存在を証明しました。ですが私の体が存在することは証明できませんでした。
あなたはこの心身二元論についてどう思いますか?私はこの考え方は間違っていると思います。あなたは体調が悪い時、心も元気がなくなるということはありませんか?また笑顔でいる時、心も元気になるということはありませんか?このように心と体は互いに影響し合っていて、それぞれを明確に分離することはできないと思います。
この心身二元論という考え方はその後も様々な哲学者によって議論されることとなりました。
社会契約説とは?【ホッブズ・ロック・ルソー】
今から約300年前、国家はどうあるべきかについて考えた3名の哲学者がいました。ホッブズは現実的な考えを持っており、ルソーは理想的な考えを持っていました。そしてロックの考えはその中間にあるイメージです。
現在の日本を含む多くの国々ではロックの考え方が採用されています。やはり真ん中の考え方が一番好まれやすいのかもしれないですね。
ホッブズ-国家は国王が治めるべきである
普段の生活ではあまり意識していないかもしれませんが、私たちは法律やルールに縛られて生活しています。家のルール、学校のルール、会社のルール、社会のルールなどです。もしもそれらのルールが全てなくなったとしたらどうなると思いますか?皆が自由になんでもできるとしたら。
ホッブズは今から400年ほど前のイギリスの哲学者です。彼は「万人の万人による戦い」が始まると考えました。
私たちはそれぞれ自分のことしか考えていません。私は今日何を食べるか、私は今日何をするか、私は今日何時に寝るか、などなどです。そんな私たちが完全な自由を手に入れた場合、それぞれが自分の利益を最優先し、他人のことなど考えずに好き勝手することで、人々が争い合うことになると考えたのです。
力の強い少数の人はそのような社会を望むかもしれませんが、大多数の人々にとってそんな社会は嫌ですよね。
ホッブズは国王が国家を治めるべきであると考えました。ただの国王ではなく強い国王です。
因みにホッブズは、リヴァイアサンのように強い国王が望ましいといいました。リヴァイアサンとは旧約聖書に出てくる怪物の名前です。国民は国王に絶対服従する代わりに国王は国民を統治してくれます。
ホッブズの考える国家について、あなたはどう思いますか?人々が自分のことしか考えていないというホッブズの指摘は的を得ていると思います。ただし国王に絶対服従するのは嫌ですよね。せっかく自由になったのに、争いが嫌だからといってまた国王に支配されるなんてまっぴらです。
また人々が完全に自由になったとして、「万人の万人による戦い」が始まるでしょうか?
確かに争いが増えることは間違いないと思います。ただし人を攻撃すると敵を増やしてしまい、逆に反撃されるリスクが増えるのです。皆自分が攻撃されるのは嫌ですよね。皆が自由になれば「万人の万人による戦い」が始まるというのは少し単純すぎる気がします。いずれにしてもホッブズの考える国家は現代の主流にはなりませんでした。
ロック-国家は国会や政府が治めるべきである(現代の諸国家で採用)
ロックも今から400年ほど前のイギリスの哲学者です。彼の考える国家はバランスが良かったので、現代の日本を始めとする世界中の国々で採用されています。
もしも全てのルールがなくなって皆が自由になった時、社会はどうなるでしょうか?
ロックはこのように考えました。
人々は自分の利益を優先して行動するが、同時に他人の生命や利益を傷つけてはならないと考えることができる。よって、ホッブズが考えたような争いが起こることはないと考えたのです。
ただし一部の人が他人を傷つける可能性があるので、その一部の人を取り締まるためにも、国会や政府が必要であると考えました。国民は、法律を作る権利を国会に、法律を執行する権利を政府に預けるという契約を結びます。その代わり国会や政府は法律やルールを用いて争いが起らないように統治するのです。もしも国会や政府が過剰な法律やルールを作って国民に悪影響を与えたならば、国民は国会や政府に抵抗する権利が与えられています。
あなたはロックの考えについてどう思いますか。
ロックの考え方は結構いい感じなので、現代の日本を始めとする諸外国で採用されています。
ただし現代の政府をあなたは良いと感じていますか?政治家が国民から集めたお金を私的に利用したり、特定の企業に有利な法律やルールを執行したりと悪いニュースが連日のように流れていますよね。元々国民皆で作った国会や政府であるにもかかわらず、その中に悪徳や不平等が蔓延してしまう結果となっています。ロックの考えた国家にもやはり限界があるのですね。
ルソー-国家は全国民が治めるべきである
ルソーは今から300年ほど前のフランスの思想家です。彼はこれまで紹介した哲学者の中で最も理想を思い描いた哲学者でした。
もしも全てのルールがなくなって全員が自由になった時、社会はどうなるでしょうか?
ルソーはこのように考えました。
人々は自分の利益ではなく、公共の利益という社会全体の利益を優先することができる。よって人々が自分の利益を優先した争いが起こることもないので、国王、国会、政府など国民を統治するものは必要ないと考えたのです。よって国民一人一人が国家を統治することになります。
ルソーの考え方は理想的で素晴らしいですが、やはり現実とはかけ離れています。
確かに国民は社会全体の利益を考えることができるかもしれませんが、やはり自分の利益を優先して行動するのではないでしょうか?また国民一人一人が国家を統治することは物理的に不可能です。何か大切なことを決めるとき、毎回全国民が一つの場所に集まって議論するなど不可能ですよね。
ルソーの考えは現実離れしていたため、採用されることはありませんでした。しかしながら理想を思い描き、国家はこうあるべきだ。と考えるのはとても大切なことです。ルソーが思い描いた国家、国民一人一人が公共の利益を優先し、争いのない国家がいつの日か実現することを願っています。
ベンサムとミルの功利主義【多数決は正しい?】
今から約200年前のイギリスにおいて、ベンサムとミルという2名の哲学者がいました。彼らは、人々の幸福を実現するためにはどのような社会が望ましいかについて考えました。ベンサムの思想は現代の多数決にも反映されています。ミルの思想は実現が難しいものですが、今後多数決をより良いものにしていくために必要な思想です。
個人の幸せとは?社会はどうあるべきか?
ベンサムとミルは今から200年ほど前のイギリスの哲学者です。
イギリスでは資本主義が発展し、社会が大きく変わっていく時代でした。そんな時代に、個人の幸せとは何か?個人の幸せを実現するためにはどのような社会を実現すれば良いか?についての問いが生まれてきました。
現代を生きる私たちも資本主義社会を生きています。工場で機械を使ってものづくりを行い、お金を稼いでいる人も多いでしょう。
あなたは幸せですか?私は会社の歯車として働いており、自分の代わりは幾らでもいる。私はただ機械の整備をしているだけだ。などなど、個人としての幸福が分かり辛くなっている人も多いのではないでしょうか?
そんな資本主義社会において、個人の幸福とは何か?個人の幸福を実現するにはどのような社会が望ましいか?を考える哲学者が現れ、功利主義という思想が現れてきました。
功利主義とは人々が幸福を感じる行いが正しい行いであると考える思想です。
次回カントという哲学者を紹介しますが、彼は人々が幸福になるという結果ではなく、人々を幸福にしたいという動機が大切だと説きました。功利主義はこれとは真逆の思想になります。
例えば誰かの幸せを願ってボランティアをし、結果的に誰かを傷つけることになったとします。カントは結果ではなく動機を重視したので、結果的に誰かを傷つけたとしても誰かの幸せを願って始めた行為であれば正しい行いであると考えます。
一方功利主義の思想では、結果的に誰かを傷つけたのであればそれは悪い行いであると考えます。
今回は功利主義を提唱した代表的な哲学者であるベンサムとミルの思想を見てみましょう。
ベンサムの功利主義
ベンサムは個人が幸福になるためには、食欲・性欲・睡眠欲などの欲求を満たしてあげれば良いと考えました。そしてできるだけ多くの人が幸福になる社会が望ましいと考えました。この考え方を「最大多数の最大幸福」と言います。
人々は自分の食欲・性欲・睡眠欲を満たすことを第1に考えます。そんな人々が集まり多数決を行います。一番多くの票を獲得した施策を行っていけば、その分多くの人たちが幸福になれるということです。
ベンサムの考え方は単純でわかりやすいですよね。
彼の考え方に従うと、多数決をしておけば多くの人が幸せになれるということになります。現代の日本社会では選挙という多数決を行い、多くの票を獲得した政治家が政治を行いますよね。ベンサムの考え方は現代の日本社会にも浸透している考え方です。
ところであなたはベンサムの考え方についてどう思いますか?
ベンサムの考え方はわかりやすいですが、欠点もあります。
それは個人の幸福についてです。個人の幸福が食欲・性欲・睡眠欲だけだと考えるのは単純すぎではないでしょうか?確かに私たちは美味しいものを食べると幸せを感じますが、それ以外にも精神的な幸福などがあるはずです。
ミルの功利主義
ミルは個人の精神的な幸福を重視しました。
人は自分の欲求を満たすだけでなく、他人のために尽くすことで幸せを感じることがあります。キリスト教では「自分がしてもらって嬉しいことを人にしてあげなさい」という考え方がありますが、人は他人の利益を願って行動することもできます。
ミルの考え方は正しいと思いますが、これを実際の社会で実現するのは難しいです。
ベンサムの考えたように、個人が自分の幸福だけを願うのであれば、多数決で一人一票の投票権を持つことは理にかなっています。一方でミルが考えたように、個人が他人の幸福も考えるのであれば、本当に一人一票でいいのか?という疑問が生まれます。ミルの考え方が正しいのであれば、自分だけでなく他人の幸福も考えている人は多くの投票権を持つべきではないでしょうか?
また多数決では個性が埋没してしまうという問題もあります。他人とは違う個性を持った人の意見は少数派の意見になりがちだからです。ですが新たな時代を切り開くためには、そのような個性を持った人の新しい意見が必要ではないでしょうか?人は基本的に変化を恐れる生物ですので、多数決ばかりしていると社会の進歩はありません。
欲求を満たすことが個人の幸福であると単純化したベンサムの思想と、彼の考え方をベースにした多数決は限界にきていると言われています。ミルが考えたように個人の精神的な幸福も考慮した上で、多数決についても考え直す必要があるのかもしれません。
カントの哲学をわかりやすく
大学では理系だった哲学素人の私が、大好きな哲学者カントを紹介します。専門的な内容は書きません(書けません)。彼の考え方を始めて知った時の衝撃は忘れられません。一般の方でも理解できるようにかみ砕いて書くつもりです。正確さよりもわかりやすさ優先!読み物として楽しんでください。
コペルニクス的転回
地球は太陽の周りをまわっています。って皆さんご存じですよね。
今では当たり前の考え方ですが、昔は違いました。昔は地球が全ての中心で、太陽やその他の天体は地球の周りをまわっていると考えられていたのです。地球に生きてる私たちにとってはその方がわかりやすいですもんね。
昔の学者にコペルニクスという人がいて、彼は「地球が太陽の周りをまわっていること」を発見したそうです。
カントの哲学はコペルニクス的転回と呼ばれることがあります。
つまり、カントの哲学はコペルニクスの大発見と同じくらい、私たちのものの見方を180度転回する(覆す)大発見だったということです。

そんなに凄い哲学者だったんだ。でもカントって知らないなぁ。
カントの哲学を知らない人は多いと思います。哲学書は難しい用語が多くて意味不明です。「わかりやすい哲学」なる本がありますが、個人的にわかりやすいと思ったことがありません(笑)。
私もカントを完全に理解しているとは微塵たりとも思いませんが、色々な本を読んだり大学の講義を聞いたりしてなんとなくのイメージはつかみました。これからカントを学び始める方や哲学を専門にしない一般の方にとっては、正確さよりもわかりやすさ優先の方が良いですよね。
夕日は赤い?
いきなりですが、一つの問いを考えてみましょう。
もしもこの世界から全ての生物が絶滅したら、それでも夕日は赤いでしょうか?

そんなの赤いに決まってるじゃん
恐らく多くの方が「赤い」と考えたはずです。そんなあなたを哲学の世界にご招待します。常識やありきたりな日常から一歩離れて、想像の世界で遊んでみましょう。
私たちがものを見るためには光が必要です。真っ暗な所では何も見えませんよね。光には赤青緑といった色があります。人間は光によって物の色を見ています。
人間は全ての光を見ることが出来ますか?答えは否です。人間が見ているのは可視光線と呼ばれる光だけです。赤外線や紫外線って聞いたことありますよね?これらも光なのですが、人間は見ることが出来ません。
どうですか?少しずつあなたの常識が外れてきませんか?

いや、まだ何を言おうとしてるのか良くわからん。
人間は可視光線を見ることが出来ますが、他の生物はどうでしょうか?地球にはいろんな生物がいて、中には可視光線を見ることが出来ない生物がいるはずです(具体的な生物は言えませんが。)。
そんな生物が夕日を見ると。。。

色がない!
そうですね。夕日に色はないことが分かります。それではこう考えることが出来ませんか?
「夕日そのものが赤いのではなくて、人間が見るから夕日が赤い」

確かにそんな気もするなぁ!
どうでしょうか?少しずつあなたの常識が外れてきたと思います。カントが言いたかったのはこんな感じの話です。
「もの」があってそれを「人間」がみているのではなく、「人間」がいるからこそ「もの」がある
byカント(私の解釈ですが(笑))
この記事を読んだあなたは、今までの「もの」の見方が少し変わったのではないでしょうか?これからの日常生活で様々なものを見る時、カントの考え方を思い出してみて下さい。とっても面白いと思います。これであなたも哲学者の仲間入りです!
人間の想像力について(少し難しいので読み飛ばしてもok!)
先ほどの話から、夕日それ自体に色はないことを知りました(そういうことにしておきましょう(笑))。
何故、色のない夕日を想像することが出来たのでしょうか?見たこともないのに(見ることが出来ないのに)。
これが人間の理性というか、考える力のおかげです。私たちは見たことがないものでも想像することができます。例えば完全な円ってこの世界には存在しないのに(コンパスで書いたとしても、ひたすら細かく見ると必ずズレているはずです)、想像することができますよね。
人間って直接「目」でものを見る以外にも、「頭」を使ってものを認識しているんですね。人間の考える力について興味がある人は、プラトンやデカルトという哲学者について学ぶと面白いと思います。名前だけは聞いたことあるのではないでしょうか?
このサイトでもいつか記事を投稿したいと思います。その時はこの下にリンク張っておきますね。
道徳について-良い動機が大切-
はい、もう一つだけカントの考え方を紹介しますね。これまでの話とは全く違うので、注意です笑
カントは道徳についても考えた哲学者です。道徳とは「人はどのように生きるべきか」みたいな話ですね。またもや一つの問いを考えてみましょう。
人のためにならなかったボランティアは良い行いですか?
これは意見が分かれるのではないでしょうか?もちろん正解はないと思います。ではでは、カントの主張はこうです。
「もしも人のためを思って(良い動機から)始めたボランティアであるならば、結果的に人の役に立たなかったとしても、それは正しい行いである」
byカント(私の解釈付き)
カントは結果よりも動機を大切にした哲学者だったんですね。なんとなく哲学者ってお堅いイメージがありますが、カントは温かみのある人だなぁと個人的に感じました。
因みに私は、人の役に立たないボランティアには意味がないと考えてしまいます。私って冷めてるなぁ。。。
ヘーゲルの哲学【弁証法とは?】
ヘーゲルもカント同様、哲学の歴史に大きな影響を与えた偉大な哲学者です。カントが個人の内面について考察を深めたのに対し、ヘーゲルは社会や国家、更には人間の歴史にまでスケールを広げて考察を行いました。
ヘーゲルの生きた時代-フランス革命-
ヘーゲルは今から200年ほど前のドイツの哲学者です。
ヘーゲルが生きた時代はフランス革命が終わった後の社会で、無秩序状態に陥っていました。
フランス革命とは簡単に言うと、市民が王様を倒して自由を勝ち取るための革命でした。それまで市民を支配していた王様がいなくなって人々が自由を手に入れるはずでしたが、支配する王様がいなくなると無秩序になったのですね。
例えば学校のクラスを想像してみてください。先生が生徒を管理しています。先生がいなければ生徒はもっと自由になれるかもしれません。ですが実際に先生がいなくなったらどうなるでしょうか?学級崩壊になると思いませんか?
以前カントについて説明しましたが、彼は個人の内面に着目した哲学者でした。人が物を見るとはどういうことかを考察しました。また人生の目的は幸せになることではなく、幸せに値する人間になることだと主張しました。
カントの教えは素晴らしいですが、現実の社会は無秩序状態になっています。
ヘーゲルはそのような社会状況を見て思いました。カントは個人に関しての哲学を深めたが、それだけでは足りないと。
個人は他者や社会によって影響を受けているのです。ヘーゲルは個人だけでなく社会全体についての哲学を展開した偉大な哲学者の一人です。
絶対精神-世界は無数の神様からできている
ヘーゲルは社会全体、さらにはその社会全体が移り変わる歴史について考察しました。とてもスケールが大きいですね。
ヘーゲルは社会全体には絶対精神が宿っていると考えました。
はい。意味不明ですね。
でも日本人はこの絶対精神がイメージしやすい国民なのです。「八百万(ヤオロズ)の神」という言葉を聞いたことがありませんか?全てのものには神様が宿っているという考え方です。日本にはたくさんの神社がありますが、その全てに神様が宿っていると考えられていますよね。山にも川にも神様が宿っています。
ヘーゲルの絶対精神もそんなイメージで捉えることが出来ます。
世界にある全てのものには絶対精神という神様が宿っているという考え方です。
だから何?という感じですよね。
もう少し説明を続けますので、お付き合いください。
世界の本質は自由である
ヘーゲルは言いました。絶対精神は自由を求めていると。
つまり絶対精神によってできているこの世界は自由を求めて進み続ける。
その過程がこの世界の歴史であると考えました。
この世界は自由を求めて進み続けているので、もしもあなたが自由を求めて生きるならば、あなたの人生はうまくいきます。逆にあなたが古いものに縛られて安心安定を求め、自由を求めて前に進まないならば、あなたの人生はただただ衰退していく人生になります。
絶対精神や自由など突拍子のない言葉がたくさん出てきて意味不明ですよね。
なぜヘーゲルが自由にこだわったか。それはヘーゲルが生きた時代背景にも関係していると思います。何故ならフランス革命が起こった後ですからね。人々が自由を求めている時代でした。
ただ、ヘーゲルの説明は現代を生きる私たちから見ても結構合っているんです。
人類の歴史は自由が実現していく歴史になっています。昔は王様が国民を支配していたので、自由な人は王様一人でした。ですが時代が進むにつれて民主制が始まり、国民一人一人に自由が与えられていきます。
あなたは今どのくらい自由であると感じていますか?
私はサラリーマンなので平日は8時間働かなくてはなりません。その時間は自由でないかもしれません。しかしながら働き方改革で残業時間が規制されるなど、人間の働く時間はどんどん短くなっています。今後は週休3日になる日が来るかもしれません。またフリーランスやyoutuberなど、会社に縛られず個人で自由に働く人も増えてきています。
ヘーゲルが言ったように、人間の歴史は自由に向かって進んでいるのではないでしょうか?
弁証法-歴史が自由を実現する過程
ヘーゲルは世界が自由を実現していく過程を説明するために、弁証法という方法を用いました。
弁証法とは簡単に言うと、何か二つのものが対立することで、そのどちらでもない第3のより良いものが出来上がると言う方法です。
例を挙げましょう。例えば友達と意見が合わずに喧嘩しているとします。二人はお互いに自分の意見が正しいと考えています。ここで二人は話し合いを行い、まったく新しい第3の考えを思いつきました。二人はその新しい考え方に納得し、仲直りしました。めでたしめでたし。
この例では二人の意見が対立することにより、まったく新しい考えが生まれ、二人の絆はより深まることとなりました。
ヘーゲルは、世界の歴史も弁証法により自由を実現することで発展していくと考えたのです。
残念ながら世界の歴史は争いの歴史です。しかし争いを経て世界は自由を実現していくのです。
世界は弁証法により前に進みます。その先には私たちの自由が実現される未来が待っているのです。
ヘーゲルの思想は専門用語が多くて難しいですが、たまには彼の思想を思い出してください。そしてあなた自身は自由へと向かっているか、自分自身に尋ねてみてはいかがでしょうか?
【神の見えざる手】アダムスミスの経済思想
私たちは資本主義社会を生きています。資本主義社会について説明したアダムスミスの思想は非常に参考になります。神の見えざる手とはどう意味でしょうか?
資本主義の発展
アダムスミスは今から200年ほど前のイギリスの経済学者です。
イギリスでは産業革命が始まり、資本主義が発達しました。日本を含む世界各国では、現代においても資本主義が採用されています。産業革命により、人ではなく機械が物を生産するようになりました。資本主義とは人々が土地・建物・お金などを所有し、それを増やしていくことで成り立つ社会になります。
あなたやあなたの家族も日々お金を増やすために働いていますよね。将来的には土地や家を買うかもしれません。資本主義は現代の社会に浸透しているので違和感のないものだと思います。
このような時代にあって一つの大きな疑問が現れました。一人一人が自分の利益だけを追求して行動した場合、社会全体としての利益はどうなるのかという疑問です。
面白い疑問ですよね。あなたはどう思いますか?
一人一人は自分の利益だけを考えており、社会全体の利益など考えていない場合です。この疑問に対して、アダムスミスは明快な回答を与えました。
神の見えざる手-個人の利益は社会の利益になる
アダムスミスは言いました。
一人一人が自分の利益を追求した結果、結果的には社会全体の利益にもなる。
つまり一人一人が自分の利益を求めて行動するのを放っておけば、結果的に社会全体の利益につながるので、皆さん自由に自分の財産を増やしてくださいね。ということです。
まるで神様が私たちに見えないところで個人を操り、社会全体の利益につながるように操作しているようですよね。アダムスミスの考えは「神の見えざる手」と表現されることが多いです。
あなたはこの考え方をどう思いますか?
アダムスミスの主張は現代の資本主義社会にとって常識となりつつあります。しかしながらアダムスミスの主張に反対する経済学者も現れてきます。その点については改めて紹介したいと思います。
人は時に自己の利益を犠牲にする
アダムスミスは更に言いました。
人はお金だけでなく共感を求める生き物である。
人は時に自己の利益を犠牲にし、社会全体の利益となる行動を選択することで、周りと共感しようとするということです。
あなたはこの考え方をどう思いますか?
仮にあなたが宝くじ5億円当たったとします。とても嬉しいですよね。でも同時に少し怖い気持ちになりませんか?5億円を手にしたら、あなたの人生はガラッと変わってしまいます。会社に行って働く必要も無くなります。
そして何より、今まで付き合っていた友人や職場の同僚と話が合わなくなる可能性があります。宝くじが当たる前は「お金が無いよねー」と愚痴り合っていた友人と話が合わなくなり、本音で語り合えなくなるでしょう。そうです。あなたが本心から共感できる人間関係を失う可能性があるのです。自分だけがお金をたくさん持つと、周りからの陰口が増え、お金を持っていない人たちと共感できなくなる恐れがあります。結局あなたは5億円の内いくらかを社会に寄付するかもしれません。
人は皆と共感するために自己の利益を犠牲にすることで、社会全体にとって利益となる行動を選択するということです。私はこのアダムスミスの主張に賛成なのですが、あなたはどう考えるでしょうか?
当たり前のように資本主義社会を生きている私たちですが、ふとアダムスミスの思想に思いを巡らすのも有意義な時間だと思います。
空想的社会主義(ユートピア主義)
サン=シーモン、フーリエ、オーウェンらは資本主義社会の負の側面を指摘し、ユートピア主義(空想的社会主義)を構想しました。空想的社会主義とはどのような社会でしょうか?
ユートピア主義(空想的社会主義)
今から200年ほど前に資本主義社会が発展すると、労働者は低賃金かつ劣悪な労働環境で働かされることとなりました。
資本主義社会では資本を持っている株主や社長が力を持っています。労働者は立場が弱く、社長の指示通り働かねばなりません。また社長の命令を無視すると解雇されることもありました。
因みに現代の私たちも資本主義社会を生きていますが、この時代の劣悪さよりは大分マシです。現代でも株主や社長の力が強いのは確かですが、労働者を守る法律が整備されているので、200年前と比較すると恵まれた環境で働くことができています。
劣悪な環境で働く労働者が資本主義社会に対して不満を持っていたこの時代に、ユートピア主義という新たな思想が生まれました。
ユートピア主義とは簡単に言うと、人々の平等を求める思想になります。ユートピア思想を唱えた代表的な哲学者として、サン=シモン、フーリエ、オーウェンなどが挙げられます。
サン=シモンの思想
サン=シモンは人々がその能力に応じて働き、働いた分の給料を得る社会を構想しました。
確かにこの考え方は平等で素晴らしいと思います。
現代の日本で資本主義社会を生きる私たちの多くは会社に就職し、給料を得ています。年齢に応じておおよその給料額が決められ、一生懸命働いている人も働いていない人もだいたい同じ額の給料を得ることになります。これでは平等ではありませんよね。年齢に関係なく、個人の能力や業績に応じて給料が決まる方が平等であると私は思います。
あなたはサン=シモンの考え方についてどう思いますか。
彼の思想に反対する方もおられると思います。個人の能力や業績に関係なく皆の給料が同じである方が平等だという考えもあるからです。
確かに個人の能力や業績をどのように測定するのかという問題があります。業績には現れなくても、皆の気づかない所で会社の役に立っている人もいるでしょう。
いずれにしても、サン=シモンの思想は実現しませんでした。ユートピア思想だと呼ばれる所以です。
フーリエの思想
フーリエは皆が共同で生活する生活共同社会を構想しました。ある一定の生活共同体を組織し、その中ではみんなが家族だという考え方です。
現代の私たちにおける家族は多くても10人くらいでしょうか。皆さん家族は大事にされていると思います。その家族が大きくなれば、より平等な社会が実現するという考え方です。
確かに理論的には正しい気がしますが、実際に実現するとなるとちょっと無理がある考え方だと思います。
確かに現代においてもシェアハウスなどがあります。他人同士で家族のような生活を送ることができます。
ですが皆さんやはり小さな家族単位で生活しようと考えるのではないでしょうか?血の繋がっていない他人同士が集まって家族を作ったとしても、家族の人数が増えれば増えるほど、家族としてのつながりが希薄になっていく気がします。
いずれにしても、フーリエの思想は実現しませんでした。ユートピア思想だと言われる所以です。
オーウェンの思想
オーウェンはユートピア思想を構想したというよりは、実際にユートピア思想を実践した人物になります。工場経営で富を蓄え、皆が共同で生活出来る村を作りました。お金がたくさんあれば、ユートピアを作ることができるという例ですね。
私は小さいころ、毎朝暗い顔をして会社に向かう大人たちを見て、なぜみんな働かなければならないのだろう?と不思議に思った記憶があります。
食べ物を買うために働かなくてはならないのであれば、みんなで農業をすればいいのです。子供はわざわざ学校に行かなくても、親や大人が子供に勉強を教えてあげればいいのです。
オーウェンの作った村での生活がどのようなものであったかはわかりませんが、一度そのような村で生活してみたいなと個人的には思いました。
マルクス主義とは【科学的社会主義】
マルクスは科学的社会主義を唱えました。科学的社会主義とはどのような社会でしょうか?
資本主義社会への不満-労働の疎外-
今から200年ほど前に資本主義社会が発展すると、労働者は低賃金かつ劣悪な労働環境で働かされることになりました。
資本主義社会では土地、建物、生産設備などの資本を持っている株主や社長が力を持っています。
労働者は立場が弱く、社長の指示通り働かねばなりません。
マルクスによると、労働とは本来人間が自己実現を行い、また他人との結びつきを作ることができるものです。
しかしながら当時の労働者は道具のように扱われました。1日10時間以上の長時間労働にも関わらず低賃金で働かされ、更にはいつでも代えの効く存在だったのです。
労働者は商品を生産しますが、それは株主や社長に取り上げられます。
また労働者が効率的に商品を作れるようになり、1人の労働者が作れる商品の数が1個から10個になったとします。
すると沢山の労働者を雇わなくても、少数の労働者だけで沢山の商品が作れるので、労働者1人あたりの価値が下がります。
このように商品を作れば作るほど労働者が損をしてしまうのです。
マルクスはこの状況を見て、労働者が疎外されていると考えました。
精神的貧困-人間の疎外
資本主義社会では、人間は労働力という道具に成り下がります。
沢山の商品を作ることができる人間(道具)は価値が高く、商品を作ることができない人間(道具)は価値が低いと考えられました。
人間は労働力(道具)と見なされ、お金で交換可能なものになってしまうのです。
本来人間は商品を作る能力や、お金を持っているかどうかで図られる存在ではないですよね。
ですが当時の資本主義が発展し始めた頃は、そのような価値観が蔓延していました。
こうして人間の人間としての尊厳が失われたのです。
唯物論的歴史観-生産能力の増大が歴史を進歩させる-
マルクスは唯物論的歴史観を唱えた哲学者です。
以前ヘーゲルという哲学者を紹介しましたが、ヘーゲルは歴史というものは絶対精神が自由を実現していく過程だと捉えました(絶対精神についてはヘーゲルの所で説明しています)。
つまりヘーゲルは人間の精神に焦点を当てた哲学者でした。
対してマルクスは唯物論的歴史観という名前からも想像出来る通り、精神ではなく物質に焦点を当てました。
彼は歴史というものは商品の生産能力が増大していく過程だと捉えました。
時が進むにつれて労働者一人当たりの生産能力が増大していきます。
しかしながら社長と労働者の力関係は変わりません。
労働者は生産能力を増大しているにも関わらず、社長との力関係が変わらない状況に不満を持ち、ついには反乱や革命を起こすことで新たな力関係を作っていきます。
この繰り返しにより歴史が進歩していくと考えました。
マルクスの死後、ロシアでは実際に革命が起こり、社会主義国家が建国されることになります。
社会主義国家の実現へ
マルクスは土地、建物、生産設備などの資本を株主や社長が独占するのではなく、皆で共有すべきであると考えました。
これを社会主義と言います。
実際にマルクスの死後、ロシアで革命が起きソビエト社会主義連邦という社会主義国家が生まれました。
しかしながら現代の私たちが知っている通り、ソビエト社会主義連邦はすでに崩壊しています。現代において社会主義国家はほとんどありません。
なぜ社会主義国家がうまくいかなかったのでしょうか?
土地、建物、生産設備などの資本を皆で共有し、株主や社長と労働者との格差を是正する。労働者を過酷な労働から解放し、皆に同じ額の給料を支払う。
一見すると平等で素晴らしい社会のように見えますが、実際はうまくいきませんでした。
人は平等になると怠けてしまうようです。
働いても働かなくても同じ額の給料がもらえるのであれば働かないほうが得だと考えてしまうのですね。
人間も感情を持った生物なのである意味しょうがない気もします。
社会主義は理論的には素晴らしいものだと思うのですが、感情を持つ人間社会ではうまくいかないようです。
キルケゴール/ヤスパース
個性が失われた時代において、キルケゴールは個人の主体性を重要視する思想を唱えました。実存主義について学びましょう。
個性が失われた時代
キルケゴールが活躍したのは今から100−200年ほど前の時代でした。
この時代は新聞などのマスメディアの発達により人々に大量の情報が素早く行き渡るようになりました。
また資本主義が発達し、人々が商品を沢山作ってお金稼ぎをすることを目的として生きていました。
この状況は現代でも当てはまりますね。インターネット・テレビ・新聞などで日々大量の情報を浴び続けていると、一つ一つの情報に対して主体的に自分の頭で考えることが出来なくなってしまいます。「ニュースで言っていることは正しい」、「専門家が言っていることは正しい」という具合に皆が受け身の姿勢になった結果、全ての人が同じような考えを持つようになったのです。
また資本主義社会にあって人々は製品をつくるための1歯車になりました。いくらでも代えの効く存在となったのです。
個人は大勢の中に紛れてしまい見分けがつかなくなりました。
自分がいなくなっても世界は変わらない、自分の代えはいくらでもいるという思いから生きる情熱を失っていったのです。
キルケゴールはこの状況を「死にいたる病」であると批判しました。
実存主義-個性を大切に-
実存主義とは、簡単に言うと「個性を大切にしよう」ということです。
「人間とはこういうものだ」、「人間とはこうあるべきだ」というような誰にでも当てはまる一般的な哲学ではありません。
本来人は一人一人がかけがえのない存在であり、独自の個性を持っているはずです。
そのような個性を大切にすべきであると説いたのです。
人が個性を発揮して生きるためには、一人一人が自分の生き方を発見する必要があると考えました。
人は自分の願った通りの自分になることができる。
私は実存主義の考え方が大好きです。
キルケゴールの有神論的実存主義-個性が成立するまでの過程
キルケゴールは今から200年ほど前のデンマークの哲学者です。
キルケゴールの唱えた実存主義は神様の存在を前提としたものであったため、有神論的実存主義と呼ばれました。
キルケゴールによると、人が自分の生き方を発見するまでには3つの段階があると考えました。
1段階目は美的実存と呼ばれるもので、「あれも、これも」と自身の快楽を追求する段階です。食欲・性欲・睡眠欲などの欲求に任せ、ただひたすら自身の欲望を満たしていきます。自分の欲望を満たし続けると次第に快楽を感じ辛くなるものです。最終的には欲望を満たすことに飽きてしまいます。
2段階目は倫理的実存と呼ばれるもので、「あれか、これか」と自分の良心に従って行動する段階になります。個人は自分のやるべきことを見つけ、一生懸命頑張ります。やるべきことは、例えば勉強や仕事でしょうか。もちろん人によって違うと思います。ただ人間には限界があり、どれだけ頑張っても自分のやるべきことを達成出来ないことが出てきます。
そこで人は絶望し、次の3段階目に入っていきます。
3段階目は宗教的実存で、宗教を信仰することで絶望からの救済を得ます。この段階までくると個人は自分の個性を発見し、かけがえのない存在になることができるのです。
あなたはキルケゴールの主張についてどう思いますか?
あなたが個性を自覚した瞬間はどんな時でしょうか?
私自身の過去を思い返すと、キルケゴールの言った通りに3段階のステップを経験したような気がします、1段階目は多くの方が経験すると思います。2段階目は勉強やスポーツで目標を掲げ、1人で辛い思いをしながら一生懸命努力している時だったのかなと思います。なかなかうまくいかない自分に絶望することがありました。そんな時に宗教の教え、神様の教えに助けられた記憶もあります。これが3段階目でしょうか。
日本人は宗教にあまり馴染みがないので、2段階目までは納得できたとしても3段階目は納得できないかもしれません。
ヤスパースの有神論的実存主義-個性が成立するまでの過程-
ヤスパースは今から100年ほど前のドイツの哲学者であり、キルケゴールと同様に有神論的実存主義を唱えた哲学者でした。
基本的にはキルケゴールと同様の考え方を持っていますが、キルケゴールのいう3段階目のところが少し違います。
人は2段階目で自分の目標を達成することができず、絶望します。しかし人は目標が達成できなかったからといって死ぬわけではありません。
その後3段階目に入るのですが、人は生き続けます。生きていると自然に目標が達成されたり、もしくは別の道を見つけて知らないうちに立ち直れたりすることがあります。それは神様のおかげだとヤスパースは考えました。
あなたもそのような経験がありませんか?
キルケゴールとヤスパースの考え方は若干違いますが、いずれも第3段階で神様が私たちを助けてくれる点は同じです。神様の助けにより、私たちの個性が完成すると考えました。
孤独
キルケゴールやヤスパースの目指した個性の確立は、結果として一人一人を孤独にします。
人は共感を求める生物なので、一人一人が異なる個性を持っている場合は本心から共感することができなくなるからです。
キルケゴールは、神が個人のそばにいてくれるから孤独ではないと考えました。
ヤスパースは、個性を守りながらも人と交わることを「愛し合いながらの戦い」と考えました。
キルケゴールやヤスパースの考え方に賛成するかどうかはあなた自身が選択すれば良いと思います。
個性を捨てて皆と仲良く共感するか、それとも個性を追求して孤独になるか。もしかしたらその中間もあるかもしれません。いずれにしてもそれをあなたが主体的に選択したならば、それはあなたの個性と言えるのではないでしょうか?
【神は死んだ】ニーチェの超人思想【力強く生きよ】
ニーチェはご存じの方も多いと思います。ニーチェに関する書籍が大ベストセラーになったのも記憶に新しいです。彼の思想は現代の日本人に大きな気づきを与えてくれました。
虚無主義(ニヒリズム)の時代
ニーチェは今から100年ほど前のドイツの哲学者です。
この時代は新聞などのマスメディアの発達により人々に大量の情報が素早く行き渡るようになりました。
また資本主義が発達し、人々が商品を沢山作ってお金稼ぎをすることを目的として生きていました。
この状況は現代でも当てはまりますよね。インターネット・テレビ・新聞などで日々大量の情報を浴び続けていると、一つ一つの情報に対して主体的に自分の頭で考えることが出来なくなってしまいます。「ニュースで言っていることは正しい」、「専門家が言っていることは正しい」という具合に皆が受け身の姿勢になった結果、全ての人が同じような考え方を持つようになったのです。
また資本主義社会にあって人々は製品をつくるための1歯車になりました。いくらでも代えの効く存在となったのです。
そんな時代は虚無主義(ニヒリズム)が蔓延した時代でもありました。「みんが良いと言っているものを良いと思う」、「自分の代わりはいくらでもいる」、「ただなんとなく生きている」、「今日が楽しければいいか」、そのような考え方が蔓延し、人々が主体的に生きる情熱を失ったのです。
神は死んだ-キリスト教の批判
ニーチェはニヒリズムの原因をキリスト教だと考えました。
キリスト教の教えは人々の生きる原動力になるはずの欲望を抑えている。そのことが人々の元気を奪っていると考えました。
さらにキリスト教は、強者に虐げられた弱者があの世での救いを求めるための宗教であると考え、この世で強く生きようとする強者の妨げになっていると批判しました。
本来キリスト教は全ての人々を救うことを目的としているので、キリスト教を弱者のための宗教ととらえるのはやや過激な思想であると個人的には思いますが。。。
ニーチェはキリスト教を強く批判することで、人々に強く生きることの大切さを説きました。
日本人にとって宗教はあまり馴染みがないかもしれませんが、ヨーロッパをはじめとする海外の人にとっては宗教の教えがそのまま人々の考え方に影響するくらい身近なものになっています。
ニーチェがキリスト教を批判したことは衝撃的な出来事なのです。
ニーチェはキリスト教を批判し、「神は死んだ」という名言を残しました。
超人思想-力強く生きよ-
ニーチェはこの世界で力強く生きようとする人を「超人」と呼び、神に変わり新たな世界を創造していく者であると考えました。
超人は自分の生きる意味と真剣に向かい合い、昨日の自分を乗り越えながら成長していく存在です。
虚無主義(ニヒリズム)の社会に目をそらすのではなく直視し、そんな社会を変えていく存在。
ニーチェは人々が超人になることを望みました。
身近な例を挙げてみましょう。例えばあなたが現在の体型に満足せず、ダイエットをしたいと考えているとします。あなたが超人となり、目標を達成するためには、現状に目を背けるのではなく、直視する必要があります。例えば体重計に乗って現在の体重を確認したり、鏡で自分の体型を確認するなどです。現状に目をそらしていては、それを乗り越えることができません。超人となり目標を達成するためには自分自身と向き合い、そしてダイエットと向き合う必要があるのです。
現代を生きる私たちの社会にも虚無主義(ニヒリズム)は存在するのではないでしょうか。「生きている理由がわからない」、「ただなんとなく周りに流されて生きている」、「自分がいなくなっても何も変わらない」といった考えを持っている人は多いと思います。
そんな時代にあってニーチェの言葉は私たちの心に突き刺さります。
個人が個性と主体性を持って自分の目指した目標を達成していく。
あなたもそんな超人になってみませんか。
【存在と時間】ハイデガーの思想【実存主義】
ハイデガーの言葉は現代を生きる私たちにも突き刺さると思います。限られた人生をどのように生きるかは自分次第です。自分の夢実現に向けて貴重な時間を使っていきませんか?
存在と時間-人間本来のあり方は何か
ハイデガーは今から100年ほど前のドイツの哲学者です。
ハイデガーはキルケゴールと同様に実存主義を唱え、人間の個性について考えた哲学者でした。
ハイデガーは、そもそも人間が存在する意味とは何かについて独自の思想を展開しました。
人間はただ肉体としてそこに存在するものではなく、未来に向かって自分の目指す人生を実現していく存在であると考えました。
人間は様々な他者や出来事に出会う中で、自分の望む未来は何かと考え、それを実現していく存在なのです。
ハイデガーの考え方は現代を生きる私たちにも受け入れられやすいのではないでしょうか?
人間はただ生きるために生きている、もしくは生まれながらに未来が決まっていると考えてしまうと楽しくないですよね。
先の見えない未来に向かって、自分の人生を実現するために生きていく方が楽しそうだなと思います。人は自分の願った通りの自分になることができる。私は実存主義の考え方が大好きです。
死への存在
ハイデガーは、人間は未来に向かって自分の夢を実現するために生きる存在であると説きましたが、誰しもその先には死が待ち受けています。
ハイデガーは人間を「死への存在」と考えました。
人間は無限の可能性を持っているのではなく、有限の時間の中で生きる存在なのです。
人間は未来に「死」が待っていると考えると不安な気持ちになります。
死への不安から目をそらす私たち
人間は死への不安を紛らわすために世間の中に紛れ、対して重要ではない噂話や暇つぶしをして時間を無駄にしているとハイデガーは主張しました。
人間の生きられる時間は限られているのだから、自分の人生を実現するため重要なことに時間を使うべきです。
しかし人間は自分が死ぬという事実から目を背け、なんとか気を紛らわそうとして無駄な時間を過ごしているのです。
ハイデガーは言います。私たちはいずれ死ぬという事実から目をそらさず、それを直視しなければならない。その事実を受け入れた上で、自分の限られた時間をどのように使っていくか考えなければならない。自分の人生がどうなったとしても、それは自分自身の責任である。自分の人生に責任を持つことができた時、個人は本当の個性を獲得することができる。
ハイデガーの言葉は現代を生きる私たちにも突き刺さると思います。
限られた人生をどのように生きるかは自分次第です。
自分の夢実現に向けて貴重な時間を使っていきませんか?
【実存主義】サルトルの哲学【人間は自由の刑に処せられている】
あなたは自由を好ましいものと考えますか?自分の生き方を自由に決めることが出来るのは良いことですが、その結果がどうなろうと自分の責任になります。自由には必ず責任が伴うものです。人間は自由の刑に処せられていると唱えたサルトルの思想を見てみましょう。
自由と責任
サルトルは今から50年ほど前のフランスの哲学者です。
サルトルはキルケゴールやハイデガーと同様に実存主義者です。
キルケゴールやハイデガーが主張したように、人間は自分の人生を自由に作り上げていくことができると考えました。
つまり「人間はこうあるべきだ」という一般化したものはなく、一人一人が自分という人間を自由に決めて良いという考えを持っています。
この考え方はとても良いですよね。人は自分の願った通りの自分になることができる。私は実存主義の考え方が大好きです。
しかしながら自由には責任が伴います。
責任とは、自分が自分の人生に責任を持つという意味です。
人間は自分の人生を自由に作り上げることができますが、自分の願っていた結果が得られなかった場合でも他人に文句を言ってはいけません。
結果がどうであれ、自分の人生には自分が責任を取らなければならないのです。
自由の刑
人は新しい自分に変わる時は不安に襲われます。
人は心のどこかで常に安定を求めている生物だからです。
自分の人生を作り上げていくためにはそのような不安に耐え、誰にも文句を言わずに未来を選び取っていかなければなりません。その過程はきっと辛いものでしょう。
自由と引き換えに責任や不安を背負わなければならない。
これをサルトルは「自由の刑」と言いました。
確かに自分の人生を他人が決めてくれると楽ですよね。うまくいかなかった時は他人に文句を言うことができます。
自分の人生を自由に決めることは一見良く見えますが、辛い一面もあるということです。
社会を自由に作り上げる
人は他者と共存して生きています。そして人々の中に埋もれ個性を失っていきます。
個人が個性を取り戻し、自分の人生を作っていくためには、他人と関わらないほうが良いのでしょうか?
サルトルはこのように考えました。
人は敢えて社会の中に入り、他人と交わるという自由を持つことができる。
その中で社会を作り変えていくことができると考えたのです。
重要な点は、敢えて社会に入っていくという点です。
ただ社会の中に埋没することは個性を失うことにつながりますが、自らの選択により社会の中に入り他人と交わりながら社会を作り変えていくことが現実的な自由だと考えました。
いかがでしょうか?
人は他者と関わりながら生きています。
サルトルの実存主義は現実的に実践しやすい教えではないでしょうか?
自由と責任を自覚し、社会の中で自己実現を行っていく。
社会の中で個性を失いそうになった時、サルトルの思想を思い出してみてはいかがでしょうか?
【実用主義】パース・ジェームス・デューイの哲学
パース・ジェームズ・デューイは今から200年ほど前のアメリカの哲学者です。彼らは実用主義を唱えた哲学者でした。実用主義とは簡単に言うと、行動や結果につながる知識にしか意味がなく、絶対的な真理など存在しないという考え方です。この時代のアメリカは国家が成立したばかりで、これからどんどん成長していこうという時代でした。そんな時代だからこそ、実用主義のような考え方が生まれたのかもしれません。
パース-役立つ知識が真理だ
パースは実用主義を最初に唱えた哲学者です。
実用主義では行動や結果につながる知識を真理と考えました。
例えば毎日沢山ご飯を食べたら痩せるというダイエット法があるとします。
これは実用主義に照らし合わせると真理でしょうか?答えは否です。
なぜなら行動に繋がらないからです。だって毎日沢山ご飯を食べたら痩せるなんて誰も信じませんよね。誰もそのダイエット法をやらない。行動に繋がらない知識は役に立たないので真理ではありません。
それでは毎日30分走れば痩せるというダイエット法ならどうでしょうか?今度は痩せそうな気がしますよね。このダイエット法を聞いて人が行動に移し、実際に痩せることができれば、このダイエット法は真理であると考えるのです。
このように、実際の行動と結果によって真理かどうかが変わる。絶対的な真理は存在しないという考え方を実用主義と言います。
この考え方についてあなたはどう思いますか。
私たちは基本的に勉強が嫌いです。この勉強ってなんの意味があるの?と考えがちですよね。実用主義は多くの人々に受け入れられやすい思想かもしれません。
ジェームズ-有用主義
ジェームズは有用主義を唱えました。これはパースの唱えた実用主義をさらに発展させたものです。
彼は実用主義を神や善悪の問題にまで適用しました。
神は存在するか?
有用主義の考え方に則ると、神が存在すると考えたほうが私たちの生活が豊かになるのであれば存在する。逆に神が存在しないほうが私たちの生活が豊かになるのであれば神は存在しないということになります。
善悪についても同じです。私たちの生活に役立つ知識であればそれは善い知識であり、私たちの生活に役立たない知識であればそれは悪い知識であると唱えました。
ジェームズの考え方もわかりやすいですね。現代の日本でも多くの人々に受け入れられやすい考え方ではないでしょうか?
デューイ-道具主義
デューイは道具主義を唱えました。これはパースの唱えた実用主義やジェームズの唱えた有用主義をさらに発展させたものです。
少し言葉が違いますがこの3人の主張は大体同じです。
デューイは知識を道具であると捉えました。役に立つ知識(道具)であれば作業効率が上がり、役に立たない知識(道具)であれば作業効率が下がると考えたのです。現代であればパソコンの知識は役に立つので意味がありますが、哲学の知識は役に立たないので意味がない知識でしょうか…
実用主義はアメリカの成長期に生み出された思想であり、アメリカが経済発展するのに役立った思想であると考えられます。
ですが経済発展が進んだ現代の私たちには実用主義がどのように映るでしょうか?
私は少し物足りない気がします。
この世界には一見役に立たなさそうな知識が沢山あります。ですがそのような知識こそ、個人の個性を育てたり、個人の生活に彩りを加えてくれるのではないでしょうか?
フロイトとユングの精神分析【無意識/集合的無意識とは?】
フロイトとユングは人間の心の中に無意識という領域があることを発見し、哲学の歴史に大きな影響を与えました。
フロイト-無意識の発見
フロイトは今から100年ほど前のオーストリアの心理学者です。
彼の思想はそれまでの哲学の歴史に大きな衝撃を与えました。
哲学はざっくりと言えば人間の頭で物事の真理を追究する営みです。
しかしながらフロイトは、人間には意識できない、つまり考えることができない無意識の領域があると主張しました。無意識の中には性的衝動などの本能的な欲望が抑圧されて蓄積され、人間が行動するための原動力になっているというのです。
性的欲求について人前で話すことは基本的にタブーでしたので、フロイトの主張は衝撃的でした。
人は性的欲求を解消できない場合、自らの無意識の中に閉じ込めて抑制します。
フロイトはこの状態をコンプレックスが溜まった状態と表現しました。
無意識、自我、超自我
フロイトによると、人間の心の中には無意識、自我、超自我の三つの領域があります。
無意識は人間が行動する原動力であり、アクセルのような役割を持っています。
無意識の中に溜まったコンプレックスは非常に強大なエネルギーを持っており、このエネルギーを勉強やスポーツなどに発散することができれば、大きな力を発揮することができます。
次に自我というものがあります。これは無意識というアクセルを制御しようとするのですが、無意識のエネルギーに圧倒され、振り回されてしまう存在です。
3つ目が超自我です。これは人間のブレーキのようなもので、無意識を抑制しきれない自我を罰する役割があります。
超自我とは人が教育によって教えられる常識のようなものです。人前で性的な発言をしてはいけないなどの常識を理解しているのは超自我です。
自我は無意識の持つ欲求と超自我の持つ社会の常識を調整しなければならず、とてもかわいそうな立ち位置にいます。
あなたはフロイトの考えについてどう思いますか?
私たちの心は三つの要素でできているなんて意外ですよね。
無意識は人間が意識できないものなので実感が湧かないですが、確かに存在するであろうと考えられています。
無意識の力-創造と破壊
無意識の中に溜まったコンプレックスは非常に強大なエネルギーを持っており、何かを創造するための原動力になります。
しかしながら一方で、自己を破壊するエネルギーにもなるとフロイトは考えました。
あなたは何かを作り上げた後、それを壊して、また作り直したいと考えたことはないでしょうか?
もしくは何か夢を達成した後、その夢を捨てて新たな夢を追いかけたいと考えたことはないでしょうか?人間は創造と破壊の間で揺れ動いている存在なのかもしれません。
ユング-集合的無意識の発見
ユングは今から100年ほど前のスイスの心理学者です。
彼は無意識の下には更に集合的無意識が存在していると主張しました。
無意識は性的欲求がコンプレックスとして蓄積されたものであり個人によって異なるのに対し、集合的無意識は時代を超えて全人類が共有している無意識です。
集合的無意識には神話、宗教、狩りをして生活していた記憶、理想の異性像など、時代を超えた記憶のイメージが蓄積されています。
例えば男性が女性に求めるもの、もしくは女性が男性に求めるものは全人類で共通しており、それは全人類の集合的無意識が原因であると考えられています。
集合的無意識も人間が意識できないものなので実感が湧かないですが、確かに存在するであろうと考えられています。
ここまでくると考えるよりも感じるしかないですね。
無意識の存在を信じるか信じないかはあなた次第です。
アドラー心理学とは?【嫌われる勇気】
アドラーの心理学は日本でも大ヒットしました。彼の心理学は実践してこそ意味があります。何か一つでも気づきが得られたなら、現実の世界で行動に移してみましょう。
個人という全体-個人は分割できない
アドラーは今から100ほど前のオーストリアの心理学者です。
フロイトやユングが心理学の理論を発展させたのに対し、アドラーは実践的な心理学を重視しました。
アドラーは個人を全体として捉え、体と心、意識と無意識などに分けることはできないと考えました。
これまで多くの哲学者が体と心、意識と無意識などに注目していたことを考えると、アドラー心理学は特徴的ですね。
個人は目標に向かって行動する
アドラーは個人を未来の目標に向かう存在だと考えました。
その目標を達成するために体、心、意識、無意識などを使い分けていくと考えたのです。
とても現実的で実践的な考え方ですね。
個人は劣等感を克服しようとする
アドラーによると、個人は皆コンプレックスを抱えており、他人よりも劣っていると感じています。
このコンプレックスが個人の行動の原動力となり、なんとか他人よりも優れた人になろうと努力するのです。
フロイトは個人の性的コンプレックスが個人の行動の原動力と考えましたが、アドラーは性的なものにとどまらない一般的なコンプレックスを考えています。
嫌われる勇気を持ちなさい
個人は皆コンプレックスを抱えています。その反動により、他人から褒められたい、承認されたいという欲求を感じています。
しかしそれでは他人の目ばかり気にする人生になってしまい、自分自身の人生を歩むことができません。自分の人生を歩むためには他者からの承認を必要としてはいけない。「嫌われる勇気」を持ちなさいとアドラーは言いました。
「嫌われる勇気」は日本で大ブレークしましたね。他人の目を気にして生きるのに疲れた人が多いのかもしれません。日本人は特に他人の目を気にしやすい国民ではないかと感じています。日本が島国だからでしょうか。都会よりも田舎の方が周りの目が気になったりしますものね。所属するコミュニティーが小さければ小さいほど、他人に目が行き届くので、周りの目を気にしやすくなると思います。
自分を認め、他者を信頼しなさい
他人から承認してもらうのではなく、自分で自分を承認しなさいとアドラーは教えています。こうして自分のコンプレックスを受け入れてあげるのです。
自分を認められない人は他人を認めることができません。自分を認めることで他者も認めることができ、結果として社会の中でうまく生きていくことができるようになります。
この考え方もその通りですよね。例えば正直に生きている人は、他人も正直に生きているはずだと感じることができます。そして他者を信頼することができるようになるのです。
社会貢献しなさい
自分を認め、他者を信頼し、社会の中で生きていく。その中で人は社会に貢献していきます。社会に貢献することで自分に自信がつき、さらに自分を認めることができます。そうすると他者をより一層信頼し…という具合に正のスパイラルが続いていきます。
因みに社会貢献は必ずしも自分の周囲でなくても構いません。例えばある地域の中で社会貢献しようと考え、結果的にうまくいかなかったとしても、もしかしたら日本というより広い視野で考えれば何らかの貢献ができているかもしれません。日本の中で貢献できていなくても、世界というより広い視野で考えれば何らかの貢献ができているかもしれません。広い視野を持って社会貢献しなさいとアドラーは教えています。
あなたはアドラーの考え方についてどう思いましたか?
彼の教えは実践的で分かりやすかったのではないでしょうか?
アドラー心理学は実践してこそ意味があります。あなたの行動につながるような気づきが一つでもあると嬉しいです。
ソシュール・ウィトゲンシュタインの思想【言語学】
ソシュールやウィトゲンシュタインは現代哲学に大きな影響を与えました。私たちが日常的に扱う言語に着目し、人間の思考には限界があることを示しました。「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」ウィトゲンシュタインの名言です。
ソシュール-構造主義
ソシュールは今から100年ほど前のスイスの言語学者です。
彼は言語に着目することで、過去2000年以上も続く哲学の歴史を根本から覆すような大発見をしました。
これまで哲学者は「人間はどのように生きるべきか?」、「世界はどのように成り立っているか?」、「正しさとは何か?」、「社会はどうあるべきか?」などの問いに対して答えを追い求めてきました。しかしながらこれらの営みは全て言語によって行われているのです。
これまで人間は物事を自由に考えることが出来ると錯覚していました。
実は人間は言語という枠の中でしか考えることが出来ないのです。
ソシュールは構造主義の創始者であると言われています。構造は英語でシステムと言います。
個別的な事柄ではなく、それらを取り巻く環境に着目する思想です。
これまで哲学者は様々なことを考えてきましたが、実は「言語」という鳥かごの中で踊らされていたに過ぎないとも言えます。
構造主義ではそのシステム(今回の例でいうと「言語」という鳥かご自体)に着目します。
システムに着目することは非常に大切なことです。
例えばサッカーでは11人のプレイヤーがグラウンド上を走り回っています。
構造主義ではプレイヤー一人ひとりに着目するのではなく、そのシステム(陣形)に着目します。
攻撃的な陣形や守備的な陣形など色々あるでしょう。
プレイヤーは自由に動いているように見えますが、実はその陣形の中で動いています。
構造主義はいわば木ではなく森を見る考え方ですね。
言語への反省-人間の限界
人間は自由にものを考えているように見えて、実は言語というシステムに縛られています。
仮に言語がない世界を想像してみてください。
その世界では全てのものが一つになっています。
パソコンもテレビも存在しません。男性も女性も存在しません。全ては一つなのです。
人間は名前を付けることで世界を分離していきます。
「空」と「大地」という名前を付けることで、世界は「空」と「大地」に分離します。
「人間」という名前を付けることで「人間」とそれ以外を分離します。
「人間」は更に「男」と「女」という名前を付けることで「男」と「女」に分離します。
このように人間は言語によって世界を分離しているのです。
人間は言語の中でしか物事を考えることができません。
例えば「色」には無限のグラデーションがあるはずです。
しかし人間は「赤」、「青」、「緑」など限られた言語の中でしか物事を考えることができないのです。
ウィトゲンシュタイン-哲学の限界-分析哲学
ウィトゲンシュタインは今から100年ほど前の、イギリスの論理学者です(生まれはオーストリア)。彼は言語による人間の限界に着目し、「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」という名言を残しました。
哲学はこれまで、「人間はどのように生きるべきか?」「世界はどのように成り立っているか?」などの問いに対して答えを追い求めてきました。
しかしながら人間は言語という限界の中でしか物事を考えることが出来ません。
つまりあらゆる問いに対して答えを追い求めることは不可能であるということです。
それではどこまでの問いであれば答えを追い求めることが出来るのでしょうか?
哲学の限界がどこにあるのかを見定めることを分析哲学といいます。
「人はどのように生きるべきか?」、「神は存在するのか?」、「正しさとは何か?」などの問いは哲学の限界の外にあると考えられました。これらの問いは哲学の限界を超えているので、考えるのをやめなければならない。つまり「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」ということです。
今回はソシュールやウィトゲンシュタインの思想について紹介しました。いかがだったでしょうか?普段何気なく使っている言葉ですが、考えてみると奥が深いですよね。
言葉は人間の考え方に大きな影響を与えています。ポジティブな言葉を発すると、なぜか気持ちが明るくなったりしませんか?
今一度言葉について考えてみるのも面白いと思います。
ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスの哲学
ホルクハイマー、アドルノ、ハーバーマスの思想はフランクフルト学派と呼ばれています。人間はただ組織の目的を達成するための道具となってしまった。彼らの批判は私たちにの心に突き刺さります。
ホルクハイマーとアドルノ-2度の世界大戦
ホルクハイマーとアドルノは今から100年ほど前のドイツの哲学者です。
二人は「啓蒙の弁証法」という著書を執筆したことで知られています。
彼らは2度の世界大戦を経験し、人間の愚かさを痛烈に批判しました。
人間は科学技術を発展させることで豊かな生活を実現させてきました。しかし一方で科学技術が人間を殺すための道具を生み出したのも事実です。
あなたは科学技術の発展を良いことだと思いますか?
科学技術の発展により私たちの寿命は延び、便利で快適な生活を送ることが出来ています。しかしながら科学技術の発展により、人間が人間らしさを失ったと考えることも出来るのです。
人間は道具になってしまった
人間は科学技術を発展させ、便利な道具を生み出し利用してきました。
しかしいつの間にか、逆に人間が道具に使われるという事態が発生しているのです。
例を挙げてみます。昔の人間は手作業で物を作っていました。その後、機械という道具を発明し、機械を利用することで物を大量に作ることが出来るようになりました。
しかしいつの間にか人間と道具の立場が逆転してしまいます。人間は機械のアラームが鳴るとその場へ直行し、機械の修理を行います。人間は機械のアラームが鳴ると原材料を投入しに向かいます。人間は機械が正常に動いてくれるように、毎日メンテナンスを行います。どうでしょうか。いつのまにか人間が機械に使われているようではありませんか?
二度の世界大戦では、人間が作った道具により人間が殺されました。人間は道具を生み出すことで道具の奴隷となってしまいました。
道具は何かの目的を達成するために存在します。例えば傘は雨を遮るために存在します。スピーカーは音を鳴らすために存在します。
道具になり下がった人間は、ただ目的を達成するためだけに行動します。そしてそもそもその行動は何のためにやっているのかを考えなくなります。
あなたも経験があると思います。学校では与えられた問題を一生懸命解こうとしますが、そもそも何故その問題を解く必要があるのかを考えません。会社では与えられたマニュアル通りに作業しようとしますが、そもそも何故そのマニュアル通りに作業しなければならないかを考えません。
人間は科学技術を発展させて便利な生活を送る反面、この「何のために?」を考える力が弱ってきているのではないでしょうか?あなたも普段の生活を送る中で一歩立ち止まり、「そもそもこれは何のためにやるのか?」を考える習慣を付けてみてはいかがでしょうか?
ただ目的を達成することだけに意識が向いていると、人間が人間らしさを失ってしまう恐れがあります。
ハーバマス-コミュニケーションの重要性
ハーバマスはドイツの哲学者です。
現代を生きる私たちは効率性を重要視しています。効率的にものを作ることが出来れば、それだけ会社は発展することが出来ます。そして会社組織も効率性を求めるため、ピラミッド型の組織となりました。ピラミッド型組織とは、トップである社長の命令が上から下に効率的にいきわたる組織です。
このような組織では人間はものを効率的に作るための道具となり、人間関係もまた効率性を求めるものになりました。皆さんも会社内では基本的に仕事の話をしますよね。いかに効率的に業務を遂行するかを目的としたコミュニケーションを行っているはずです。
このように効率性を追い求めることで、人間は人間らしさを失ってしまったのではないでしょうか?
ハーバーマスはコミュニケーションの重要性を強く主張しました。上からの命令に従い、ただ効率性を重視するのではなく、お互いがコミュニケーションを通じて納得しあいながら成長していく。一見効率が悪い方法に見えますが、そうすることで人間は人間らしさを回復し、更に発展していくことができるのではないでしょうか?
ピラミッド型の組織は個人の個性が失われてしまう恐れがあります。これからは個人が主体的にコミュニケーションを行うなかで、それぞれが意思決定を行い、個人のアイデアが受け入れられていく組織に変わっていく必要があると私は思います。
【自由からの逃走】エーリッヒフロムの哲学
フロムは第1次/第2次世界大戦を経験したドイツの社会心理学者です。人間が個人として主体的に生きる必要性を説きました。
ファシズム-全体主義
ファシズムとは簡単に言うと、個人よりも国家が大切だという考え方です。イタリアやドイツで広がりました。イタリアではムッソリーニ、ドイツではナチスという独裁者がいて、国民はその独裁者に付き従います。
着目したいのは、その独裁者を選んだのは国民であるという点です。独裁者は公正な選挙によって選ばれました。
なぜ国民はそのような独裁者を望んだのでしょうか?
自由からの逃走
人間は自由を手にすると不安になります。
いつでも好きな時間に好きな場所で好きなことをしていいよと言われたとします。とても嬉しいですよね。ですが一方で、何をしたらよいか分からず不安になったりしませんか?やるべきことが与えられていたほうが安心するのもまた人間の心情です。
小学生から高校生までは、親や教師に言われたことをやっていればよかった。
そして大学生にもなると親や教師から離れ、自由な時間が増えます。しかしいざ自由な時間が与えられると、何をしてよいか分からず不安になります。誰に聞いても答えを教えてくれません。とりあえず皆がやっているように部活やサークル、アルバイトを始めたりしますよね。
人は自由を欲しいと言いながら、いざ自由を手に入れると不安になり、自由を何か他の人やものに預けたくなるものです。何かに縛られているほうが、みんなと一緒の方が安心だからです。
ファシズムが広まったイタリアやドイツの国民も、自らの自由を独裁者に預けることで安心を得たかったのではないでしょうか?
主体的に生きる必要性
ファシズムは歴史的に見て悲惨な結末を迎えます。
ナチスによるユダヤ人虐殺はあなたも聞いたことがあるはずです。国民は独裁者を崇め、一方ではユダヤ人を虐殺する。そうすることで心のバランスを取っていたのかもしれません。
フロムは個人が主体的に生きる必要性を説きました。
私もこの考え方に賛成です。自由は怖いものですが、一人一人が自由を受け入れる必要があります。そして自分の頭で考え、個人が主体的に生きていく必要があるのです。自分がいつどこで誰と何をするか、自分の人生は自分の意思で決定していきましょう。
【野生の思考】レヴィストロースの哲学
現代を生きる私たちは、先進国が優れていて、発展途上国は劣っていると考えがちです。本当にそうでしょうか?
レヴィストロース-構造主義
レヴィストロース(1908年-)はフランスの文化人類学者です。
彼は個人よりも、個人を取り巻く環境やシステムに着目した哲学者です。個人ではなくシステムに着目する考え方を構造主義と言います。
人は自由に生きているように見えて、実は環境やシステムの影響を強く受けています。例えば友達がみんな野球をしていたら、あなたも野球が好きになったりします。周りがみんな頑張っていたら、自分も頑張りたくなります。
このように個人を取り巻く環境やシステムを研究することで、人間をより深く理解することができるのです。
先進国-栽培の思考
私たちは先進国が優れていて発展途上国は劣っていると考えがちではないでしょうか?
レヴィストロースは先進国の考え方を栽培の思考だとして批判しました。
先進国では皆が自由に物事を考えているかのように見えますが、実は先進国を取り巻く環境やシステムに支配されています。
確かに私たちは効率性やルールを重要視しがちではありませんか?
効率性を追い求めたり、ルールを整備することで、物を大量生産することが出来ます。
これにより国が発展したことも事実です。
しかし効率を求めて無駄なものを排除していくと、大切なものを見失う恐れがあります。
実際に先進国では効率を求めてひたすらに科学技術を発展させるてきましたが、結果として戦争を引き起こしたり、自然を破壊してしまったりしています。
発展途上国-野生の思考
レヴィストロースはアマゾンの奥地など、いわゆる未開の地の人々と交わることで研究活動を行いました。彼はその中で、発展途上国の人々の思考は先進国の人々の思考に対して全く劣っていないと感じました。
発展途上国には発展途上国の考え方があり、先進国には先進国の考え方があります。どちらが優れていてどちらが劣っているということはありません。
発展途上国では先進国ほど高率性を重要視していないと思います。むしろ発展途上国の思考の方が、優れている面もあるのではないでしょうか?実際発展途上国では自然と共生する術を心得ているはずです。
レヴィストロースの思考を学ぶことで、あなたの世界の見方に少しでも変化があれば幸いです。
【生の権力】ミシェルフーコーの哲学
現代を生きる私たちは昔の人よりも自由に生きているのでしょうか?
死の権力-国王が支配する世界
死の権力とは、国王のような絶対的権力者がいて、国民は国王に支配されている状態をいいます。
昔の時代の話ですね。
国民は悪いことをすると国王によって死刑にされる可能性があります。その恐怖によって、国民は支配・管理されているのです。
このような国の国民は自由であると言えるでしょうか?言えないですよね。
それでは現代の日本のように絶対的な権力者がいない国において、国民は自由であると言えるでしょうか?昔に比べて自由になったと考えますか?
生の権力-支配者がいない世界
ミシェル・フーコー(1926年-1984年)はフランスの哲学者です。
彼は、現代の日本のように絶対的な権力者がいない国においても、目に見えない権力が働いており、国民はその目に見えない権力に支配・管理されていると考えました。これを生の権力といいます。
例えば学校においては時間割が決められており、皆が同じ時間に同じことをしなければならない。工場においても従業員はマニュアルに従って決められた行動をとることを要求される。教育によって常識が広まり、皆の考え方が同じようなものになっていく。
このように私たちは目に見えないルールや常識に縛られ、それに従って生きることを知らぬ間に強制されているのです。
あなたはフーコーの考え方についてどう思いますか?
私たちは一見すると恵まれた社会に生きています。住むところや食べるものに困ることはほとんどなく、仮にお金が無くなっても生活保護を受けて生き延びることができます。しかし別の見方をすると、私たちは動物園で飼いならされた動物であると考えることもできます。
学校や社会のルールに従いさえすれば確かに長生きすることができますが、それで私たちは本当に生きていると言えるでしょうか?
私たちは長生きすることが目的ですか?
それとも動物園の檻の外へ出て、自由な世界を生きることが目的ですか?
フーコーの思想は私たちにもう一度生きる意味を考えるきっかけを与えてくれるのではないでしょうか?